だんだんと視界がはっきりとしてくると、そこは、夕暮れ過ぎの一面の野原でした。七色の滲んだ群青色の空に、青い草原が広がっています。色の粒子の一粒一粒がはっきりと見え、感じられるような不思議な世界でした。風は、お母さんの言っていたように飴色に輝いています。
ポツンポツンとピンク色の花が咲いており、電灯のように輝いています。花の中を、黄緑色の虫たちが、はねて遊んでおりました。あまりにも美しい景色に、のりぼの心は奪われました。大きな木がいくつもあって、葉も風に揺れながら輝いています。
「天国?」。のりぼはふと言いました。「ちがうわ」。澄み渡った声にびくっとしました。風の声だと思いました。人間に出せる声ではないと思ったのです。
振り向くと、そこには一人の女性がおりました。茶色の細く長い髪に、風で編んだような、麻のワンピースを着ており、その顔立ちはいろいろな人種がまざったような、美しく深い顔立ちでした。
「迷子さん、いらっしゃい」。そう言うとのりぼの手を、そうっと取りました。のりぼは驚いて、その深い彫りの顔立ちを見上げました。
「『こっちへおいで』って、さっきあなたが言ったの?」と、のりぼは聞きました。その女性はうなずいてほほ笑み、「そう。道が分からないならこちらへおいでなさいと、私が言ったの」。「道?」。「ええ。ここは神様への道が分からなくなった人たちが来るのよ。私は案内役をもうずっとしているのよ」。そう言うと、首をかしげて笑いました。
「じゃあここは天国なの?」。「天国ではないわ。あなたは現にまだ生きている」。「お母さんはここにいるの?」。「お母さん?さあ。知っていても教えられないわ。お母さんがどこにいるのか、あなたの心が見つけ出さなくてはならないのだから。・・・いずれにせよ、神様が導いてくださるでしょう。ここにはいろいろな人がいるわ。楽しみながらともに行きましょう」
そう言って手をかざすと、青と黄色の羽の小鳥が、彼女の指に止まりました。「どうして僕が迷子だと言うの?」。のりぼが聞くと、彼女は「だって、知りたいのでしょう?お母さんがどこへ行ったのか。神様はおり、そして天国があるのか」と、すべてをお見通しのように言いました。
「そうだけど、天国があるっていうの?」。「ここは天国の入り口よ。深い深い、本当は誰もが知っている、天国への入り口。そこはつながっていて一つの世界を形成している。答え欲しさにここで迷子になり、地上の世界へ戻れない人もいる。だから私は案内役をしているんだけど・・・」
そう言って少し悲しげな目をしました。彼女の目をのぞき込むと、黒い瞳の奥にルビー色の輝きがあり、そのルビー色はとても悲しげな色をしていたのです。
そして、そのルビー色と同じ色の輝きをした、一本の十字架が、この世界の一番向こうの丘の上に掲げられ、夕闇とともに赤く輝いていましたが、のりぼはそのことに気付かないふりをしておりました。教会で聞くイエス様の十字架と関係があるのだと思いましたが、(イエス様のことは聞きたくはない。だって信じられる人がおかしいじゃないか。神様の息子のイエス様がこの地球に生まれて、十字架の上で死んで、人間の罪を赦(ゆる)してくれたなんて話は・・・)と思ったのです。
彼女はそんなことはお見通しで、でも気付かないふりをして、指先に止まった小鳥と口づけを交わして遊んでいました。そしてのりぼを見ると、のりぼの肩にその小鳥を載せました。
小鳥はとてもなついてのりぼの首をくすぐりました。ついつい笑みが溢れます。「ここの鳥はずいぶんかわいいね。僕の家のそばにも鳩がやってくるけど、ぎょろぎょろ見るし、のそのそと歩くし、何を考えているのか分からない顔をしているんだよ。こんなかわいい鳥は見たことがないよ」
ルビー色の目のルビー。のりぼは心の中で彼女をそう呼びました。ルビーはルビー色の悲しげな目をいっそう潤ませて言いました。
「そうね。人の世界に罪が入り込んでから、動物たちと人間の間に越えがたい溝ができてしまったのよ。・・・警戒心、恐怖心、不信感。もともと神様は私たちの仲間として、動物たちを作ってくださった。・・・アダムがどれほどの愛情を込めて、ひとつひとつの動物に名前を付けたかご存じ?・・・安心して。ここにいる動物たちは皆、私たちと本来の関係を取り戻しているわ。だからとっても愛くるしいのよ」
「神様は動物も愛しているの?」。のりぼが言うと、彼女は驚いた顔を見せました。そして少しの沈黙の後、静かに「人間は神様に似せて作られたでしょう?・・・人が動物を愛する心も、神様からいただいた想いよ。どれだけの愛を込めて、すべての被造物を神様がお造りになったか・・・動物や昆虫をよく見てごらんなさい、どれだけの愛情を込めて作られたか、きっと分かるわ。そのつくりのひとつひとつをじっと見ると、神様の愛が見えるでしょう。・・・たとえ罪を犯し続ける人間であろうと、神様は本当の愛を込めてお造りになったのよ」と言いました。
のりぼはとっさに思いました。(うそだ。神様がいるとしても、罪を憎む恐ろしくて厳しい神様だ。残酷で冷酷な神様だから、こんな苦しみだらけの世界にしてるんだ)と。荒々しい日本海のような、冷たく恐ろしいイメージが、のりぼの神様のイメージでした。けして人を赦すことがなく、ただ厳しく恐ろしい存在です。しかしひとたび人が死ぬと、怒りを収めるようにすべてを包み込んでくれる、そんな寛容さもあるようなイメージでした。
ルビーはその心の声が聞こえたのか、「そうね。神様がとても厳しく恐ろしい方なら、遠くから見ておられるでしょう。でも愛である方であったらどうするかしら」。のりぼは鬼の首を取ったように誇らし気に言いました。「助けに来るよ。苦しんでいる僕たちを」。「その通りね」。ルビーは優しく笑いました。
その時、キィーキィー!!とか細い鳥たちの鳴き声がしました。「鳥の声!どうしたの?」。のりぼはルビーに聞きました。「生贄おばさんが鳥たちを捕まえたのね。生贄おばさんっていうのは、ここに住んでいるわけではないのだけど、時々出てきては、ここの動物たちを脅かしているの」と、ため息交じりに言いました。
「いけにえおばさん?」。のりぼはいぶかしみながらも声のしたほうに歩みを進めていきました。すると、大きな木の下に、小さいおうちがありました。そこは骨組みが骸骨でできているようななんだか不気味な家でした。土の塗られた壁に、人の髪の毛がかかっているような屋根。長い骨が家の前に突き立てられており、「いけにえおばさん」と書かれた木の彫り物がぶらさがっています。
その表札は、ふるふると風ではない「何か」で揺れておりました。「中に入ってみる?そんなに悪い人じゃないのよ」。ルビーは言いました。のりぼは決死の覚悟でうなずき、そろそろと窓から中をのぞき込みました。
窓の向こうは台所でした。羽がもがれた鳥たちは、首を切られて大きな鍋に放り込まれています。まな板の上には、美しい七色の羽が力なく横たわっておりました。もうお鍋はいっぱいだというのに、まだ鳥を探しているように窓の向こうをのぞき込みます。
それは背丈の低い小太りのおばさんでした。風呂敷で頭を覆っており、顔はよく見えませんでしたが、ちらりと見えた顔や腕は傷だらけでした。のりぼがのぞいていることに気付くと、包丁を振りかざしてシッシとやります。
「ルビー。どうしてあのおばさんは、天国に近いこの場所で、あんなにも恐ろしくてみじめでいるの?」と、聞きました。ルビーはのりぼの頭をなぜて、「天国に近い美しい場所は、彼女のような人を遠ざける場所じゃないのよ。ここは彼女にとっても近しい場所なのよ。・・・彼女は愛する人を傷つけたって、ずっと後悔している。そして、自分を傷つけることと、何かを傷つけることで、自分が傷つけた人に贖罪をしているつもりなの。・・・だから次々と動物たちを殺そうとする。彼女も、動物たちも、とてもかわいそうだけれど、どうすることもできないの」
「どうしてこんなにかわいい動物たちを殺そうとするの?」。のりぼは聞きました。「入って話を聞いてごらんなさい。意外と暖かな家よ」。ルビーはそう言ってほほ笑みました。
その時・・・視界がゆっくりととぐろを巻き、この繊細であたたかな世界の空気が一変してゆきました。のりぼはざらついた何かが体をまとっていることに気付きました。それを押しやると、のりぼは見たことのないベッドで、布団をはいでいる自分に気付きました。(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。