救われるには信仰と善行の両方が必要――。そう信じているプロテスタントの信徒が、米国で相当数いるという世論調査の結果が最近、発表された(関連記事:「救われるには信仰と善行の両方が必要」 米プロテスタントの半数が同意)。これに応じるかのように、米国の著名な改革バプテスト派の神学者であるジョン・パイパー氏が、自身の宣教団体のウェブサイトに、神が何によって人を救うのかについて論じる文章を公開した。
米ベツレヘム・バプテスト教会(ミネソタ州)の元牧師で、宣教団体「デザイアリング・ゴッド」の設立者であるパイパー氏は最近、同団体のウェブサイトに掲載した文章(英語)で、義とされることと、5つの有名な「ソラ(sola)」(ラテン語で「唯一」の意味)の重要性について力説した。
5つのソラは、マルティン・ルターや他の宗教改革者たちが強調したキリスト教信仰の重要な教義。「ソラ・スクリプトゥラ(sola Scriptura=聖書のみ)」、「ソラ・フィデ(sola fide=信仰のみ)」、「ソラ・グラティア(sola gratia=恵みのみ)」、「ソルス・クリストゥス (solus Christus=キリストのみ)」、そして「ソリ・デオ・グロリア(soli Deo gloria=神の栄光のみ)」の5つを指す。
「聖書のみ」とは、キリスト者にとっての最終的権威が聖書にあることを意味する。「信仰のみ」と「恵みのみ」は、救いがキリストへの信仰とキリストの恵みによることをいう。「キリストのみ」は、イエス・キリストこそ主であり、救い主であり、王であることを意味し、「神の栄光のみ」は、キリスト者がどのようにキリストが成し遂げた光の中で生きるかを示している。
パイパー氏はこの5つのソラについて、私たちがいかに神の御前で義とされるか、そしてそれをいかに言い表すかという視点で考えるとき、最もよく理解できると言う。そして、救いの教義に関して議論になる新約聖書のヤコブの手紙の記述について言及。「ヤコブは、『信仰のみ』で義とされるという教義を、善い行いをしなくても信仰があれば義とされるという教義だと考える人々に対して、そんな信仰はだめだと強く主張したのです」と説明した。
ヤコブの手紙2章14~17節には次のように書かれている。
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
そしてさらに、24節には「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とあり、信仰義認を主張したルターは、ヤコブの手紙を問題視していた。ルターの伝記を書いたローランド・ベイントンによると、ルターは「ヤコブとパウロを和解させることができる者がいたら、その者に博士号を与えよう」と言っていたという。しかし、ヤコブに対する疑念を持ちながらも、ルターは聖書からヤコブの手紙を排除しなかった。そして、ルターは次のように書いている。
「信仰というのは、生きていて、常に動いているものです。信仰が働かなくなることはありえません。私たちは行いによっては救われません。しかし、行いがないとしたら、その信仰には何か欠陥があるのです」
パイパー氏は、「信仰によってのみ義とされるという信仰は、それだけにとどまりません。その信仰は形を変えて果実を実らせるのです」と強調。「ヤコブは『人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません』という、議論の的になるような言葉を発しましたが、そこで彼が言おうとしているのは、信仰だけでとどまるのではなく、その信仰によって行いがなされていくということなのです」と続けた。