「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った」(マタイ4:18~20)
今日の日本の社会問題の1つは、人手不足です。十分な労働力を確保できずに倒産する事業所もあります。また、後継者の育成に悩まされている企業も少なくありません。また、宗教界でも献身者の減少から寺院の維持に四苦八苦している状態です。キリスト教会でも1人の牧師が3カ所の教会を兼務していて体力的に限界にきているという話を聞くこともあります。
イエス様のなされた弟子獲得法はとても画期的です。弟子となる人の職場に赴き、その働きぶりを見て、その人の心に届く言葉を発してスカウトしておられます。
数年前に路線バスの運転手の結婚式を司式したことがあります。結婚カウンセリングの時に、その運転手の方が話された言葉はとても印象的でした。「以前はトラックの運転手をしていました。仕事はとても充実していて、労働環境も良かったのですが、人間を運ぶ仕事がしたくて、バス運転手を目指しました」。私はこの言葉を聞いたとき、使徒ペテロも「人間をとる漁師」という言葉に引かれて従ったのではないかと思いました。
イエス様はいつもその人の心に迫る言葉を示され、心に優しく触れてくださり、その人の親友として寄り添ってくださいます。
取税人ザアカイは、お金を稼いでいましたが、劣等感に悩み、周りの人々に受け入れてもらえず孤独な状態でした。彼は背が低いことが悩みでした。エリコの町に来られたイエス様を見ようとして、木に登ります。
「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」(ルカ19:5、6)
ユダヤのしきたりでは、誰かの家に入って客人となるということは、その人の友人であるしるしでした。イエス様は客人となるだけではなく、泊まりますと言ってくださっています。これは、あなたの親友になりますという宣言であります。
イエス様を迎え入れたザアカイは、今までの生き方を改め、財産を貧しい人々のためにささげますと宣言します。ザアカイは、自ら進んで一生イエス様に従う決心をします。
周囲の人々は、ザアカイの新しい出発を喜ぶのではなく、「あの方(イエス様)は罪人のところに行って客となられた」(ルカ19:7)と非難します。しかし、イエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」(ルカ19:9)と宣言されます。
新しい働きにチャレンジしようとするときに、非難や中傷はつきものだと思います。周りの人々の声ではなく、イエス様のお声を聴こうとするときに救いを目撃できます。
神の恵みを分かち合うために宣教の場が備えられ、説教者が張り切っていても、空席が目立つことがあります。招待状を送り、案内チラシを配布し、電話をかけて誘っても、「今日は都合がつかない」ということで断られてしまうこともあります。
イエス様が例え話の中で語られた招待方法(マタイ22:1~14)はとても衝撃的です。王様が王子の披露宴を開こうとされたとき、招かれた人々がいろいろな口実で出席を断ります。王様は「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」(マタイ22:9)と命令します。「しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めた」(マタイ22:10)とあります。その結果、宴会場は満席になるという話です。
この例え話で示されることは、「良い人でも悪い人でも」片っ端から招いたということではないかと思います。私の場合、自分の中で勝手に基準を作り、招く人を選別しているのではないかと思います。招かれるにふさわしいかどうかは神様が判断なさるのであって、私が決めることではないと思います。
「兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:26、27)
偉大なるスカウトマンであられるイエス様は、スカウトされた人々の人生を顧みてくださり、導いてくださいます。「わたしについて来なさい」と声を掛けてくださった方は、生きていく上で必要なものをすべて与えてくださり、私たちの人生の最後の章まで見守ってくださいます。この恵みにあずかることができましたことを感謝します。
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