涙ながらに廉三のもとを去った美喜は、実家に帰り、父に自分の計画を打ち明けた。「お父様。まず初めに、子どもたちを収容する場所が必要なのです。どうか大磯の別荘を使わせてください」
すると、久弥は涙をこぼして言った。「ああ、残念だ。おまえの仕事を祝福してあの家をやれたらどんなにいいだろう。だが、あの別荘はもう岩崎家のものではなく、進駐軍司令部のものになっているのだよ」
ただちに美喜は、司令部に駆け付けた。すると司令部は、一度公共のものとなった建物を個人のものにはできないと冷たく言った。それでも必死で彼女が食い下がると、それならば金を払って買い取れと言う。その金額は400万円だった。
翌日から、美喜は資金集めのために駆け回った。仲間や友人たちは、話は聞いてくれたが、捨てられた混血児を保護すると聞くと、眉をひそめる者も多かった。司令部では、あまりに金額が大きいので、200万を先払いにし、残りを3カ月後に払ってよいと言ってくれた。
そのうちに、早くもうわさを聞いて、数人の混血児が別荘に送り込まれてきた。つぶらな目でじっと自分を見つめ、抱きついてきた子どもを見たとき、どうしてこの子たちを再び不幸にできようかと美喜は思うのだった。
最初の200万円を作るため、彼女は持っているものをすべて売り払った。友人の中で彼女に共鳴した者たちは、時計、貴金属、外交官時代の華やかな衣服を高い金額で買い取ってくれた。また、パリ時代に知り合った友人や、ニューヨークで教会のチャリティー・ショーのために一緒に各地を回った友人たちも、手紙とわずかながらお金を送ってくれたのだった。
それらをかき集めると、何とか200万円になったので、それを司令部に払い、ようやく子どもたちのために別荘を手に入れることができたのであった。
しかし、あと3カ月で残りの200万円を作らねばならない。またしても美喜は、金策のために駆け回った。その時、その様子を見かねた友人の1人が、ある実業家を紹介してくれ、1カ月1割の利子で200万円を貸してくれた。
こうして司令部と縁を切ることができたが、毎月1割の利子を払っていくことは、大変苦しいことだった。彼女は、日夜ぶっ通しで5、6千通の手紙をアメリカの教会や個人的な友人に宛てて書き、献金を募った。
こうした中にあっても、置き捨てられる子どもたちは日増しに増えていった。しかし、美喜はすべての子どもを受け入れ、1人も拒まなかった。
それから5カ月ほどたったある日のこと。彼女は英国大使館から呼び出された。エリザベス・サンダースという老婦人が、80歳の生涯を閉じたが、40年間の貯金のすべてを、英国国教会を通じて日本の社会事業のために寄付したいとの遺言を残したので、美喜のホームのためにそれが贈られるというのだった。
その金額は170ドルほどであったが、この事業に対する最初の寄付であったので、記念としてホームは「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けられた。1948(昭和23)年のことであった。その間にも孤児は増加する一方で、美喜はありったけのものを売り払い、子どもたちのおやつやミルク代に替えた。
そのうち、もっと大きな試練がやって来た。百日咳が流行し、子どもたち全員がかかってしまった。そして、そのうちの22人が脳炎を起こして死んでしまったのである。
「そら見たことか。満足に子どもの世話なんかできやしないのに」。町の人たちは、そう悪口を言い合った。しかし、美喜はアメリカの友人が送ってくれたわずかなお金で、清潔なベッドと白いシーツを買って子どもたちを寝かせた。
すると、日本に滞在している進駐軍司令部の夫人たちは、それを見てぜいたくだと言い出した。「こんな子どもたちをベッドに寝かせるなんて。床にごろ寝させればいいでしょう」。美喜は、ほうきを振り上げ、彼女たちを追い出してから、司令部に怒鳴り込んだ。そして、サムス将軍と口論してしまったのである。
これが原因で、美喜の立場は急に不利になり、今まで交流のあったアメリカの友人たちは手紙も献金も送ってこなくなった。それに追い打ちをかけるように、重い病気が子どもたちを襲い、看病していた保育士の中にも倒れる者が出てきて、悪い評判が国内にも国外にも流れた。
するとある日、若いアメリカの女性がホームを見学に来て取材をして帰ったが、事実とまったく違った報道をし、これがある新聞に載ってしまった。その数日後、アメリカ聖公会のベントレー主教から、一切の援助を断ち切るとの宣告がなされたのだった。今や美喜は、絶体絶命のピンチであった。
*
<あとがき>
美喜が「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立するためには、幾つかの障害を乗り越えなくてはなりませんでした。その第一は、孤児を収容する建物の確保です。
本当なら、美喜が子ども時代を過ごした大磯の別荘をこのために使っていいはずなのに、進駐軍のために没収され、岩崎家のものでなくなっていたのです。そして、買い戻すためには何と400万円を支払わねばなりませんでした。
しかし、美喜はその資金を得るために、死にもの狂いになって奔走します。そして、借金も含めて何とか400万円を作って建物を買い戻すことができたときには、心身共に疲労し、倒れてしまいました。
こんな時に、エリザベス・サンダースという英国の老婦人が遺言で献金をしてくれ、英国大使館からそれが届いたのです。そして、ついに輝かしい「エリザベス・サンダース・ホーム」が誕生しました。
どんな事業も、楽をして他人任せでできるものではなく、その礎には血と汗と涙が染みついています。それ故に、神の前に貴いものとされるのです。
◇
栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。