美喜は、お茶の水東京女子高等師範学校付属の幼稚園に通っていて、やがて小学校へと進んだ。いつも彼女は1人の家政婦に付き添われて運転手に送り迎えしてもらっていたが、ある日、家に教科書を忘れてきたことが見つかり、教師に「家に取りに帰りなさい」と言われた。
「1人で家に帰る道が分からないんです」。そう言うと、教師は仕方なさそうに彼女を連れて電車の停留所まで行き、自分の財布から2銭5厘出して切符を買って乗せてくれた。しばらくしてから、車掌が尋ねた。
「どこまで行くんです?」。美喜は自分の家まで行くのに何という停留所で降りていいのか分からなかった。それで泣きたい思いで外を見ていると、やがて「本郷三丁目」に来たとき、「かねやす」という雑貨屋の看板が見えた。屋敷の家政婦たちがよく買い物に行くことを聞いていたので、「ここで降ります」と言って降りた。
すると、どういうわけか車掌が追いかけてくるではないか。それは、彼女が切符を渡さずに降りたからだったが、そうとは知らず、彼女は怖くなってあちこち逃げ回った。この騒ぎで数台の電車がつながってしまい、あちこちから警官が駆けつけてきた。
車掌は小石川近くまでこの変な女の子を追って行ったが、とうとう見失ってしまった。
美喜は駆け続けて、とうとう見知らぬ路地に入ったとき、息切れがしてしゃがみ込んでしまった。――と、目の前には石の塀があり、暗く陰気な建物がそびえていた。そして、その窓から1人の女の子が首を出した。
痩せた血色の悪い顔をしており、うつろな目で美喜を眺めていた。何だか嫌な所だなと思い、なおも立ち尽くしていると、あちこちの窓から子どもたちが顔をのぞかせた。皆病気かと思われるほど青白い顔をしている。
「ここは何ですか?」と、通りがかりの人に尋ねると、孤児院だという。「孤児院って何?」「お父さん、お母さんのいない子や、捨てられて誰も面倒をみる人がいない子ばっかりが入れられている所さ」
美喜は口がきけないほどびっくりした。子どもというものは、みんなリンゴのような頬をし、元気に笑ったり遊び回ったりするものとばかり思っていたからだった。あまり長く彼女がそこに立っていたので、最初に顔を出した女の子は思い切りしかめ面をして見せた。
しかし、何とその目には悲しげで絶望的な陰が宿っていたことか。美喜は逃げるように立ち去った。しかし、いつまでもこの子の目は心に焼きついて離れなかった。
兄たちは15歳になると、皆「雛鳳(すうほう)館」という塾に入って勉強することになった。ここには全国から優秀な学生が集まり、生活を共にしながら学び、将来は三菱に入って大事な仕事をすることになる。
美喜は1人ぼっちになって寂しくてたまらなかった。そこで新しい友達を作ることにした。この屋敷の一角には三菱の従業員たちの長屋があり、家族がそこで暮らしていた。美喜はそこに行き、たくさんの子どもたちを仲間にして「演劇ごっこ」をすることを思いついた。
「あたしは男装して全国を旅するお姫さまになるわ。だから、あなたたちは忍者やいろいろの妖怪になってチャンバラをしない?」
皆それがいいと言って役割を決めた。「妖怪ども、束になってかかってまいれ!」。美喜は刀の代わりに棒切れをかまえてあたりを見回す。筋書きでは最後に全部退治されてしまうのだが、また起き上がって向かってくる。
「しぶといお化けめ! これでもかっ!」。美喜が棒で叩き続けると、とうとうその子は泣き出し、「痛いよう! 痛いよう!」と変なボロ着を引きずりながら家の中に駆け込んで行ってしまった。
ある時は、塀の外からとんでもないものが降ってきた。それは、病気にかかった汚らしい子猫だった。
「誰だあ! こんなもの投げ込んだのは」。1人がそれをつかんで投げ返そうとすると、美喜は痺れるほど強くその腕をつかんだ。
「おやめ。かわいそうに、震えているじゃないの」。そう言って、その猫を抱いて家に入った。そして、手のくぼみにミルクを入れて飲ませると、猫はチュー、チューと音をさせて飲んだ。その体の温かみを感じ、美喜は何とも言えないほど幸せな気持ちになった。
「まあ、汚らしいこと。外に出しなさい」。母の寧子はこう言ってとがめたが、父親は「好きにさせなさい。あの子には優しいところがある」と言ってそのままにしてくれた。
結局、その子猫は洗われて、岩崎家で飼われることになったのだった。
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<あとがき>
人生には、しばしば偶然との出会いがあるものです。たまたま・・・したために、たまたま・・・へ足を向けたために――人生が変わってしまったという人が多くいます。
美喜はある時、教科書を忘れて家に取りに帰り、乗ったことのない市電に1人で乗ったことから、見たことのない場所に迷い込み、そこで恐ろしい光景を目にしたのです。それは、「孤児院」という陰気な建物の窓から、まるで幽霊のように青白い顔をした子どもたちが首を出し、外を見ている姿でした。
ちょうど美喜と同じくらいの年頃の女の子の目に宿っていた絶望的な表情は、彼女の心を突き刺しました。彼女はこの衝撃的な出会いをいつまでも忘れることができませんでした。
この時見た「孤児院」の印象は、後になって彼女が混血児の母となる使命へとつながっていくのです。その意味で、小学校の時、美喜が教科書を忘れて家に帰ったのは決して偶然ではなく、神様の導きと言えるでしょう。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。