聖学院大学(埼玉県上尾市)欧米文化学科主催の特別講演会「グローバル化時代の教養とは何か」が18日、同大チャペルで開催された。科学史や科学哲学研究の第一人者であり、東京大学・国際基督教大学名誉教授の村上陽一郎氏が講演し、教養の本質を通して自分の規矩(きく)を崩さず、他者に寛容である人間を育てることこそが今の大学に求められていると、学内外から集まった145人を前に語った。
欧米文化学科ではこれまでも、世界の多様な文化圏の人々と自由にコミュニケーションを取る能力の育成に力を注ぎ、グローバルに活躍する講師を招いての講演会などを開催してきた。今回は、大学教育の在り方、特に文系の学部学科の存在意義が厳しく問われる中で、今後大学は何を目指すべきなのかに焦点を当て、課題を設定した。
講演で村上氏は、ヨーロッパにおける大学の出現にまでさかのぼり、大学における教養教育の出発点が「リベラルアーツ」であることを説明した。「リベラルアーツ」は、「三課」と呼ばれる論理学、文法、修辞学と、「四課」と呼ばれる天文学、幾何学、算術、音楽を合わせて、日本語では「自由七課」と訳されている。
中世の大学は、必ずしも専門性を要求するものではなく、宗教的な知識人としての素養や、基礎資格を身に付けるためのもので、専門職を養成する上級学校としての神学校、医学校、法学校が敷設されていた。
啓蒙時代に入ると、幾つかのキリスト教的な枠組みに縛られない考えが生まれてくる。その中で、イマヌエル・カント(1724~1804)が、啓蒙について「自分の理性・悟性に基づいて、自己責任において判断していく状態に人間を作り上げていくこと」と述べていることを紹介し、近代人としての主体性の確立が、カントの言いたかったことだと説明した。また、啓蒙主義は、トーマス・マンの『魔の山』といった教養小説を誕生させ、ドイツ語の教養が「人間形成」の意味を持つようになっていった。
19世紀になると、ヨーロッパ圏の大学では改革が行われ、近代的な人間形成という意味合いを失い、むしろ専門的な学識を身に付け、それを磨く場となっていく。これまで大学が担ってきた人間形成に関わることは、「ギムナジウム」「リセ」といった、大学に入る前の教育機関が担うようになった。
一方米国では、ヨーロッパとは異なり、大学は人間形成を大事にし、大学院でしっかりとした専門的な学識を学ぶ形をとった。現在もその形を残す大学は多く、リベラルアーツカレッジと呼ばれている。
では、日本はどうか。村上氏は、日本語の「教養」という言葉について、初めて使われたのは1904年から05年にかけて連載された木下尚江(なおえ)の小説『良人の自白』であり、近代以降に使われ出した比較的新しい言葉だと紹介した。明治時代に設立された旧制中学・高等学校は大学予備校という性格が強く、教養もそこで学ばれ、大学は学識を専門的に勉強する場所とされていた。
戦後になると、学制改革により現在の学校制度(六・三・三制)となり、人間として素養を身に付けるために、それぞれの国立大学は「教養部」を作ることになった。しかし、1991年の大学設置基準大綱化で、これまでの必修科目の枠が外され、その結果ほとんどの国立大学で「教養部」が消えていった。そのため、全学で学生の教養教育をすることになったが、村上氏は、専門の入り口を学生たちに話して「お茶を濁して」いる現状を危惧する。
その一方で、教養を名乗る大学がここ10年で目立ってきている。大学で幅広い知識を身に付け、さまざまな課題に対応できる力を身に付けていく。その上で、専門的な学問をやりたければ大学院で学ぶというシステムだ。
東京大学の教養学部では「専門化するのはずっと後でいい」をモットーとし、学生たちがさまざまな可能性のある選択肢を探っていくうちに人間として幅広い基礎を身に付け、その中から自分の進むべき道を選び取ることを教えているという。
これからの教養について村上氏は、ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668~1744)の「常識の中の賢慮こそ大事にする」との言葉を引用し、衆愚であっても、専門家だけが支配する世の中であっても困ると述べた。その上で、国家主権者である市民としての最小限の素養が必要ではないかと問い掛け、文系でも、科学や技術に関するリテラシーを磨かなければならないし、理工系の人も、社会の仕組み、経済、法律の仕組みに無知であってはならいないと話した。
村上氏は、現代の知識人として、「多面的に物事を考えることができる」「自分の立場を相対化できる」「どういう相手にも自分の考えを伝えることができる」「どういう人の言うことも理解できる豊かな理解力を持っている」ことが必要だと述べた。「世の中があちらに走れば、カウンターバランスはどうなってしまうかをきちんと言えるような存在でなければならない」とし、その時に自分の評価基準となる「規矩」を持つことが非常に重要だと語った。
村上氏は、「カントの言うように、自分の悟性に基づいて自分を制御する、自分の欲望をコントロールする曲尺(かねじゃく)を持たなければならない。そうでなければ人でなしであり、人間ではない。だから、その意味でも自分の規矩を持ち、崩さないようにしなければならない」と厳しい語調で語った。
最後に村上氏は、「他者に対して寛容であり、柔軟であること。しかし、自らに対してはいい加減であってはならない。自分に定めた規矩を揺るがしてはならない」とした上で、「そういう存在を作り上げていくことこそが、今の大学に求められている教育の原点ではないか」と講演を締めくくった。
講演の後には質疑応答の時間も設けられ、活発に意見が交わされた。講演会に参加した聖学院大学の男子学生(1年生)は、「難しいところもあったが、社会における教養の大切さを実感した。規矩については、欲望のコントロールなど、考えさせられた」と感想を語った。