ある時、地域の方々と食べ物を囲みながら話をしていると、「ところで、菅野さんの田舎はどこ? ご両親も牧師さんなの?」と聞かれました。
「生まれは東京ですが、田舎は福島で、父方の家系は代々千年続く神社の神主で、母方は3~4代続くクリスチャンであり、牧師の家系です」と答えました。
「どこで狂ってしまったのかしら...もったいない!」と言われました。
職業に優劣はないと思っていますが、神主は高貴な神職であり、地域の名士で、素晴らしい職なのに、それを捨てて外国から入ってきた宗教家になるなんて...という、心底「もったいない!」と考えておられることを知って、そういう見方もあるんだなあと知りました。
私は、牧師にさせていただいて一番良かったと思っています。文章にしたためるたびに、それが実感となっています。
職業とは、神からの召しですから、一切優劣はありません。どんな職業であっても、神から与えられた天職と自覚し、自信と誇りを持って働くべきです。
大切なのは、神から与えられた天職に就いているかどうかです。
聖書は、「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ11:29)と語ります。
天井にある蛍光灯を取り換えようとしたら、はしごを使うだろうと思います。しかし、使えないことはありませんが、高価でデリケートなピアノのような楽器を足台にしたらどうでしょうか。壊れてしまうかもしれません。
はしごははしごとして使われることが一番幸せです。ピアノは、足台に代用できたとしても、足台として活用したとしたら不幸です。一流の音楽家によって演奏されるときに一番幸せを感じるはずです。
賜物と召命はセットです。はしごには、はしごとしての使命が与えられただけではなく、はしごとしての立派な性能が与えられています。ピアノも、形だけピアノなのではなく、どんな音楽でも演奏できるように、素晴らしい性能が与えられています。
神様が皆さんに与えられた天職も同じです。天職を行える能力が賜物としてすでに与えられているはずです。賜物は、それを発見し、磨いていくことも必要ですが、そんなに苦労しなくても、他の人よりも上手にできるものです。
だから、天職を発見し、その天職に就いて働けるなら、満足できるし、最高に幸せなはずです。
その天職は、喜びや充実感を与えてくれるだけではなく、生活をし、生きていくために必要な全てを与えてくれます。
中には、天職ではない無難な職に就いて、「本当は、○○○○になりたかったのに...」と、悶々(もんもん)としている人がいるかもしれません。
今からでも遅くありません。自分の天職が分からなかったら、神様に祈り、神様に聞いてください。そして、天職に転職することも選択肢の1つです。
おそらく、多くの人が現在天職に就いていると思います。しかし、他の職業と比較して優劣をつけて、コンプレックスや劣等感を感じて、自分の職業に自信や誇りが持てずにいる人もいるかもしれません。
自分の天職に確信が得られず、自信や誇りが持てないとしたら、神の目を通して再評価して、喜びと自信を持って仕事に励んでください。
はしごは、はしごとして使ってもらえることが一番の幸せです。はしごは楽器ではありません。いくらピアノに憧れてもピアノにはなれません。
ピアノは、演奏者のいない場所に置かれて、足台として使われたとしたら、みにくいアヒルの子ではありませんが、「私の天職、私の使命はもっと違うところにあるはず!?」と心の中に疑問が湧き上がって叫ぶはずです。
皆さんがもし、自分の天職にまだ就いていないとしたら、そのピアノのように「私にはもっと違う使命があるはず!?」と心の中に疑問が湧き上がって叫びたくなるはずです。
あるいは、はしごが楽器になろうと頑張っているように、自分じゃない自分になろうと頑張っている人はいないでしょうか? はしごははしごとして生きていくのが一番の幸せです。同じように、あなたはあなたとして生きていくのが一番です。
「このままの姿で」(ノア:作詞作曲)という賛美歌があります。
小さな野の花でも 主の愛を受けて輝く
あふれる主のめぐみは いついつまでも
バラはバラのように すみれはすみれのように
わたしもこのままの姿でついてゆきます空を飛ぶ鳥たちは 主の愛を歌い続ける
あふれる感謝喜びは いついつまでも
わしはわしのように すずめはすずめのように
私も主のほめ歌を歌い続ける
人生はたった一度だけです。自分の使命や天職を知り、それに生きなかったとしたら、必ず後悔します。しかし、自分の使命や天職を知り、それに生きたとしたら、「私の人生、これでよかった!」と幸せを感じながら、人生の幕を閉じられるはずです。そんな人生こそ、最高の人生ではないでしょうか。
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