熊本地震の時は九州全体が揺れて、地震の規模が大きかったと鹿児島でも体感できました。被害を受けられた方々にはお見舞い申し上げます。家族や知人を亡くされた方々の上に主の慰めがありますように祈ります。
災害復旧のために関係機関、ボランティア団体の方々が全力を尽くしておられますが、あまりにも被害が大きくて、救助の手も届かないところもあります。避難生活を送っておられる方々に早く救援の手が届き、家庭の日常を取り戻される日が来ますように祈っています。
熊本市内のお寺が被災したニュースをテレビで見て、先輩の和尚さんがお見舞いの電話をかけたそうです。お寺の本堂の内部は崩壊し、墓石も全て倒れてしまったと後輩の和尚さんが語られたそうです。その電話を受けた和尚さんが「あなたは大変な被害に遭ったのに、意外に声が明るいね」と話したそうです。
そうすると、被害に遭った和尚さんが「地震が起きて大きな揺れが来たとき、私の妻が抱き付いてきました。実は最近、夫婦の間が冷え冷えとしていてどうしようかと悩んでいました。抱き付かれたとき、うれしかったです。本堂は再建できますが、夫婦の絆の回復はなかなか難しいです。この災害のおかげで夫婦が仲良くできるのが何よりもうれしい」と語ったそうです。
5年前に東日本震災が起きたときにも、大変な惨状の中で「家族の絆」が見直され、冠婚葬祭とか家族の行事を大切にするようになったと聞いたことがあります。
どんなに立派な家を建てても、直下型地震が来ると被害を受けてしまいます。自然災害に直面すると人の手で作ったものがどんなに脆(もろ)いものであるか思い知らされます。日本列島のどこで大きな災害が起きてもおかしくないと専門家は指摘しています。災害はいつわが身に降りかかるか誰も分かりません。
この地球上では、どこかで大きな自然災害があり、テロリストの攻撃がありで、間違いなく安心安全といえるところはあるのだろうかと考えてしまいます。
大きな災害に直面したときは、家も財産も全てを失い、体一つで逃げ出すしかありません。残すことができるのは、思い出だけしかないといっても過言ではありません。
しかし、どんな状況に陥っても家族の絆、他人への思いやり、人を愛する心があると、人は励まされます。そして、立ち直ることができるかもしれないと思います。
最近、驚くべきニュースをテレビで見ました。子どもの声が騒音だという苦情があり、保育園の建設を諦めたというのです。子どもの声が騒音というのは、信じられないのですが、実際に訴訟問題まで起きているようです。
人が音を不快に感じるかどうかは、トーン(音の高さ)の問題だといわれます。子どもが発する音は高いのですが、それには理由があります。大人たちの注意を引き付ける必要があるからです。子どもは弱い存在です。いつどのような危険に遭遇するか予測がつきません。大人に守ってもらう必要があります。だから、高いトーンで位置情報を発信しているのだと思います。
女性が危険に遭遇したときも同じです。「キヤッー、助けて!」という声も高いトーンです。人が不快に感じるほどの音質で情報を発信しています。そうでなければ、周りの人々は聞き逃してしまうかもしれないのです。
昔の日本の家庭は大家族でした。どの家庭にも祖父や祖母がいて、孫たちがいました。また、地域社会で子どもたちを見ていて、子どもが悪いことをすれば自分の子どものように叱るし、危険な目に遭えば守ってあげていました。
今の社会は、子どもたちと年配者が切り離されています。年配者は子どものトーンに不慣れになってしまい、いつの間にか耳障りな音になって、騒音問題に発展したのではないかと思います。
震災のことも保育園問題も結局は、家庭における人間関係の絆を問うているのではないかと思います。社会を大きな家庭として捉え、周りの人々を自分の家族として考えることが求められているのではないかと思います。
大きな家庭を支える要素が宗教であり、まとめていくのが教会なのではないかと思います。
「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」(エペソ4:2~3)
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