前回「漢字を歌番組とワープロを使って覚えた」という話を書きました。実はそこには、もう1つ僕ならではのユニークな覚え方と勉強法がありました。
子どもの頃から旅行に行くことが好きでした。旅好きの僕は、「今度○○に行こう」と言われると、予定も日程すらも全く決まっていなくても、気が付けばそんな話題が出るだけで笑みがこぼれ、小学校の遠足のように待ち遠しく自然とワクワクするものです。
「どこでも連れていき、多くのことを経験させ学ばせよう」という両親の教育方針のおかげで、僕は物心つく前からいろんな地に出掛けていたように思います。そして、両親が長崎県の出身なので、幼かった頃は夏になると毎年のように長崎に遊びに行っていました。
僕の家族は4人で、両親と5歳離れた弟がいます。毎年、家族4人で長崎に行き、親戚やおじいちゃん、おばあちゃん、いとこたちと遊ぶことが楽しみでした。親戚には学校の先生が多く、1日の数時間は勉強の時間として学校の宿題などをし、その他は外で思いっきり遊び、真っ黒く日焼けしていた少年の頃を懐かしく思い出します。
東京から長崎までの移動手段として思いつくのが、飛行機や新幹線、夜行列車などではないでしょうか。パッと頭に浮かぶのが、1時間半ぐらいで行けてしまう便利な飛行機移動で、中学の2年生まで毎年飛行機で遊びに行っていました。
障碍(しょうがい)のある僕は、公共の移動手段を利用するにも大変なところがあります。現在では障碍者に対する理解やバリアフリーなども進み、駅員さんや係の方に親切にお手伝いをしていただけます。
しかし、20数年前は理解も浅く、協力していただけるようなことがほとんどない時代でした。旅費のことは別にしても、現地での移動手段などを考えると、車いすの僕を連れて行ける所には限界がありました。
中学3年生の時のことです。他界した父が、こんなことを言ったのです。「家族4人が飛行機で長崎まで往復すると、お金もかかる。そして、向こうで遊びに行く交通手段も大変だ。だから、今年から車で行こう」。僕はうれしさと驚きでいっぱいでした。
「どうやって行くんだろう・・・。何日かかるのかな」。僕は想像を膨らませながら、家族で地図を見て「ここからここまで行くんで、九州には関門海峡を渡るんだ」。毎日のように地図を見ながら出発の日を楽しみにしていました。
夏休みを迎えて数日後、いよいよ車で行く長崎までの旅の始まりです。家族も僕も車で行くのは初めてのことでした。どれくらいの時間がかかるのか。どんな旅になるのか。僕はワクワクしながら多くの荷物と共に車の助手席に乗ったことを覚えています。
東京から両親が交代で運転し、高速道路をひたすら九州に向けて走ります。サービスエリアなどで休憩するたび、僕は道路地図を広げ「今ここまで来たから、こっちに向かうんだね」などと、漢字も読めない中で地図を読む勉強をしていました。そして、夜は車中泊をしました。
「旅の記録を残そう」と、走った距離や時間、休憩場所、立ち寄った観光場所などを細かくメモしていき、レシートや領収書などを全てとっておいて、東京に戻ってから1冊のノートに旅の記録としてまとめていました。長崎までの旅がとても楽しいものになり、それから僕は、車での旅にはまっていきました。
この長崎までの旅行が大きなきっかけとなり、年に数回、全国各地を車で旅するようになりました。その旅は、僕にとって大きな意味を持つものでした。それは、生きていく長い人生の中で必要なものを、実践として学ぶ生きた勉強の場となったのです。
全国各地には、障碍の子どもを持つ親たちが集う父母の会という集まりがあります。同じ悩みや問題を分かち合い、子どもたちが障碍を持ちながらも社会の中で生きていけるよう行政や地方自治体などに働き掛けをしながら、親亡き後も豊かで安心して生きていけるよう、さまざまな活動と取り組みをしています。
毎年全国大会やブロック大会などが行われ、養護学校(現在の特別支援学校)卒業後の進路問題や障碍者の就労問題、地域生活、施設生活、親亡き後の問題など、さまざまなディスカッションやシンポジウム、話し合いが行われます。
「憲も、もう自分で自分の生き方を考えていきなさい。そのためには社会のさまざまな情報と現実を見るのも必要な勉強だから、一緒に大会に行こう」。父にそう言われ、高校1年生の時から10数年連続で大会に参加していました。
大会は全国持ち回りで行われるので、毎年参加していれば全国を旅することができます。これまで僕は父と、北は北海道から南は九州鹿児島まで、陸地で行ける場所は車で行き、沖縄はレンタカーを借りて旅をしてきました。
いつも大会終了後、「さて、お楽しみはここからだ」と数日かけて、大会が行われた近県や東京に向かう帰り道に当たる県などを旅して歩きました。「さて、どこに行こうか」。行き先も目的も決めずに車に乗り込み、地図を開いて決めていたのです。
「とりあえず、こっちに行ってみようか」。それは、僕が好きな行き当たりばったりの旅でした。地図を見て僕が行き先を決めていました。これも1つの勉強法です。
地図を頼りに目的地までのルートを決め、父は僕の案内で車を走らせていました。初めて訪れる土地なので、地図や道路標識、案内板などを頼りに行きたい場所まで進んでいきますが、漢字が読めなかった僕は、地図や道路標識の地名なども読めません。
そのたびに父から「あの漢字、何て読む?」と聞かれ、漢字の勉強が始まります。「読めないな」と悩み考えている間にも車は進み、標識の前を通り過ぎていきます。「これじゃあ、行きたい場所に行けないなぁ。地図が読めても書かれている地名などが読めないと」と話す父。
地名を示す標識には、漢字の下にローマ字で読み方が表示してあります。英語が全く分からず読めない僕でしたが、ローマ字を読むことはできていました。ローマ字読みだったら読める僕は、漢字の下に書いてあるローマ字を読み、漢字と照らし合わせて「○○って読むのか」と、旅を通して漢字や国語の勉強をしていました。
旅は、僕にさまざまなことを教えてくれます。1回旅に出ると、1週間から10日間の旅をしていました。基本的には車中泊で2日おきぐらいに飛び込みでホテルに宿泊していました。
その中で、障碍を持つ人はあまり経験しないようなホテルの直接交渉や金銭管理、入場券などの購入の仕方や注文の仕方、また他者との話し方や尋ね方、お願いの仕方、交渉の仕方などなど、生きていくために必要な社会の仕組みや常識、マナーを身に付けていったのです。
父が僕の車いすを押し、食堂やレストランに入ります。メニューを見ながら僕が注文をしているのに、店員さんは父の顔を見て、父に注文を聞くようなことが旅の中でよくありました。
父が「この子に聞いてください」と言うと、店員さんが戸惑ったような表情をすることがありました。
今では普通に接してもらうことが多くなっていますが、その当時は、ほとんどの場所で父に聞こうとする現実があり、「ちょっと嫌だな」と感じていた自分がいました。
そんな嫌なことも数々経験してきましたが、素晴らしい出会いも数多くあります。その出会い一つ一つが僕にとって大きな宝物になっています。
確か四国を旅していたときのこと、広い駐車場に車が2、3台しか止まっていないサービスエリアで一夜を過ごし、朝を迎えて外に出てみると、1人のおじさんがコーヒーを飲みながら新聞を読んでいました。トイレで洗面などを済ませた僕と父は、少し離れた席に座って朝食を取りながら、どこに行くかを考えていました。
僕は、近くで新聞を読むおじさんのことが気になっていたのでしょう。行き先を考えながら、チラチラとおじさんのことを見てしまっていたのです。その視線をおじさんは感じていたのでしょう。
しばらくしておじさんが、座っていたイスから立ち上がり、片手に読み終えた新聞を持ちながら僕の方に歩いてきました。そして「もしよければ、読んでください」と僕に読んでいた新聞を持ってきて、プレゼントしてくれたのです。僕が「ありがとうございます」と感謝を伝えると、おじさんは「頑張れよ」と言って去っていきました。
机の上で一生懸命勉強することも、とても大事なことだと思います。しかし、学校や机の上だけでは学べないことが多くあります。それは、生きていくための必要な知恵と社会的常識です。
例えば、勉強ができても、買い物などができなければ生きていけません。切符やチケットの買い方が分からなければ、どこにも行けず、行きたいところにも行くことができません。
「障碍者は世間知らず」などと言われてしまう現実があります。そして障碍を持つ仲間の中には、日常的なことが分からずにいる方も多くいます。こうした中、両親は「憲が社会で困らないように、いろんなことを経験させ学ばせておこう」と、全国を旅しながら知識や常識を身に付けさせてくれていたのです。
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