「・・・イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された」(マルコ1:35~39)
「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。・・・」(マタイ4:23~25節)
今日、もう一度あなたにとってイエスはどういうお方か、聖書の御言葉そのものに立って、シンプルにイエスの姿を問い直してみましょう。
マルコ1章、マタイ4章には、イエスが伝道を始められ、救い主としての業を始められた初期の記録が描かれています。その前後の文脈の中で、繰り返し描かれている、生身のイエスのお姿をはっきりと受け止めたいと思います。
1. 福音を宣べ伝えられた
福音とは何でしょう。神が私たちを愛し、救ってくださるという知らせ、ニュースです。神は私たちに命を与え、本当の命に生きるようにされました。しかし、神の御心にかなう人生を歩むことができない私たちに対して、神の側から救いの手としての、御子キリストを差し出し、キリストが私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったのです。
私たちは十字架によって救われたのです。悔い改め、神の愛を信じ、受け入れるだけで、罪清められるのです。イエスがこの良き知らせを事実としてくださったのです。
イエスは、あらゆる町々村々、ガリラヤ全土、異邦人のところまで出掛け、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えました。イエスは、救い主としてご自身の姿を現されたその瞬間から、福音を宣べ伝え、人々を神の救いへと導かれたお方です。
2. 全ての人を病から癒やされた
マルコ1章には、イエスの典型的な日常が描かれています。神を礼拝する会堂で悪霊を追い出し、シモンの姑の熱病を癒やし、「わたしの心だ、きよくなれ」と、ツァラアトに冒された人を癒やしました。
イエスの日常は、来る日も来る日も、人々と会えば神の愛を語り、魂の救いを語られた救い主であると同時に、病んでいる人と出会うと、ご自分の中にある救い主としての神の力で、人々をことごとく癒やし、彼らを支配している悪霊の力から解放していかれたのです。
これがイエスのリアルなお姿であり、シンプルな事実ですが、なぜか21世紀に生きる人々は、この部分に目を閉じてしまいがちです。聖書が伝えているイエスは、この世に神の御子として救いをもたらし、同時に必ず人々を癒やされた癒やし主(ぬし)です。
イエスは語ります、福音を伝え、人々を癒やすため、私は現れた!と。イエスはご自分の命までささげてくださり、罪からの救いを宣言し、永遠の命まで約束してくださいました。
このイエスが救い主として、私たちと接するとき、私たちが抱えている病に対しても、力強い癒やしの業を現されることを忘れてはいけません。イエスに心の目、信仰の目をシンプルに向けましょう。
イエスは、人を憎み、悪魔の手先となるような思いで生きてはいけないと語ります。主の前に悔い改め、主に仕え、主に喜ばれる人生を歩むために、私を癒やしてくださいと素直に祈ろうではありませんか。
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