「彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。・・・ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、・・・議員たちに向かってこう言った。「・・・あの人たちから手を引き、放っておきなさい。・・・」彼らは彼に説得され、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」(使徒の働き5章33~42節)
自然界は新しい命で満ち溢れていますが、私たちは世の罪から解放され、救われて、イエスから与えられている愛と喜びの命によって生かされていることを感謝しようではありませんか。神様を信じていない世の中の人が、絶対に味わうことのできない喜びを、私たちはイエスから与えられていることを感謝しましょう。
キリストの体である教会に属する私たちには、今日も変わらない神の命と聖霊の力が働き続けているのです。この命の豊かな流れを大切にしましょう。この命の流れは、さかのぼると、聖霊が地上に降ったときに生まれた初代教会以来2千年間、教会の中に、キリストの体に結び付く一人一人の中に、脈々と流れ続けています。
イエスの時代に生まれていればよかった、と言う人もいるかもしれません。しかし、当時は大変な状況で、伝道することを禁じられ、捕らえられ、鞭打たれ、命さえ奪われる厳しい迫害の時代でした。
その中でも、神から信仰者に与えられている命や使命、聖霊による恵みがありました。初代教会より今日まで教会に流れ続けている命とは何でしょう。
1. 状況の良し悪しに関わらない証し
クリスチャンは黙ってはいません。弟子たちは、公の場でもプライベートでも福音を宣べ伝え続けました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。
イエスから託された使命、任務を全うしようとする命が常に教会の中に流れていました。パウロがテモテに語りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2)。私たちの教会も、証しの使命を愚直に忠実に実行し続ける教会でありたいと思います。
2. イエスの弟子としてのゆるがない喜び
「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら」(41節)という御言葉通り、実に多くの宣教師たちがイエスのために喜んで苦難を受け入れ、命をささげてきました。
現代人の私たちの損得勘定では答えの出ない魂の方程式が、彼らにはありました。私たちにも、目先の喜びではなく、何があってもなくならないイエスの弟子とされている喜びがあります。
パウロは言います、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。・・・あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:11、12)。
私たちの頑張りではなく、イエスが与えてくださった命によって、喜びの絶えない歩みを続けてまいりましょう。
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