朝の連続テレビ小説「あさが来た」は4月2日で放送終了となった。「朝ロス」に見舞われている人もいるかもしれないが、関西では、ヒロインのモデルとなった広岡浅子(1849~1919年)を振り返るイベントが各地で行われている。浅子が設立に尽力した大同生命では、特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」が行われており、連日多くの人が詰めかけている。地下鉄淀屋橋駅から歩いて5分、ドラマの原案本のタイトルにもなった土佐堀川のすぐ隣にある同社大阪本社(大阪市西区)のメモリアルホールを訪ねた。
大同生命の誕生に広岡浅子は深く関わっている。同社は1902(明治35)年に、朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)、護国生命、北海生命の3社が合併して誕生した。朝日生命は、もともとは浄土真宗の門徒のために設立された真宗生命という会社だったが、経営に行き詰まり、浅子が嫁いだ加島屋(広岡家)に事業援助を求めた。
当時まだ生命保険というものは、あまり理解されておらず、「保険に入れば早死にする」という迷信さえあったという。しかし、浅子らは「真に社会救済の意味を含み、人々の生活上の安定を得さしめる事業は生命保険事業の本質ではなかろうか」という思いのもと、腹心を派遣して経営の立て直しに乗り出し、朝日生命と名を変えて、加島屋の企業グループの一員とした。
初代社長、広岡久右衛門正秋は浅子の義理の弟(夫・信五郎の弟)、そして1909年からは、娘婿(娘亀子の夫)広岡恵三が33年間社長を務め、同社の発展に大きく貢献した。
平日の火曜日の午前中、しかし展示の前には人だかりができている。大阪広報担当部長の塚田晴久さんに話を聞きながら展示を回った。
「2012年に創業110周年記念で加島屋の歩みを振り返る展示を始めた当時は1日20~30人ぐらいのお客様だったんですが、ドラマで浅子さんが主人公のモデルになることが決まり、放送が始まってからは来場者が増え、最近は千人を超える日もあります。うれしい悲鳴です(笑)」と塚田さん。
同社の2階メモリアルホールでは、まずは「加島屋の歴史」が展示されている。大同生命の旧本社ビルは、キリスト教伝道者で建築家として知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964年)が建築したもの(ドラマではヴォリンガーとして登場した)。展示室の柱や床は、当時のものが移築されて使われている。
浅子が嫁いだ加島屋は、1625年頃に大坂御堂前で精米業を始め、「加島屋」の屋号を掲げたといわれており、江戸時代後期には鴻池屋と並ぶ日本有数の商家として幕府御用を務めるまでに発展した。当時、大坂には大名蔵屋敷が建ち並び、全国の年貢米が集まる「天下の台所」と称されたが、その大坂で米の取引が行われていた場所が堂島米会所である。堂島米会所での取引では、現物の代わりに「米切手」という証券を通して売買が行われ、相場の変動に基づいて差金決済を行うという世界初の先物取引も行われていたという。(この先物取引は、シカゴのマーカンタイル商品取引所よりも100年以上早い)
加島屋は、この堂島米会所において、証券としての米切手の発行(掛屋・蔵元)や、市場プレーヤー(米仲買)に事業資金を融資(入替両替)するなど、現代の銀行と証券会社を合わせたような幅広いビジネスを展開し、幕末には300藩と称された全国諸藩のおよそ3分の1に相当する藩と大名貸し取引があり、その総額は900万両(現在の貨幣価値で約4500億円)にも上ったといわれている。
大名貸しは金額が大きい上に、藩が財政難となれば返済が滞るリスクがあるため、加島屋はその対策として、複数の商家による「シンジケートローン」を組んだり、貸し付けの担保に米ではなく特産品(例:津和野藩では和紙や蝋燭)の販売代金を返済に充てるという融資契約を結んだり、藩の翌年以降の収支計画書を求めて貸し付けを行っていたという。このように加島屋は貸付先の強みを的確に把握し、具体的に返済能力を確認して貸し付けを実行しており、こういった慎重な姿勢が大坂を代表する商人となった要因といえる。
1867年に京都の新撰組に400両を貸し付けた証文も残っており、近藤勇と土方歳三の署名が残されている。(ちなみに幕府崩壊で新撰組への貸付金も返還されることはなかったようだ)
しかし明治維新で、大名貸の大半が回収不能となり、大阪でも大商人の多くが破産に瀕する。そこに広岡家に嫁いだ浅子が、加島屋の立て直しに奔走した。旧高松藩主松平家への借用金の減免願いとそれに対する回答が朱筆された書状、「再願書」も残っている。「広岡信五郎 代アサ」の文字が見える。
不良債権の整理を進めながら、福岡県の潤野炭鉱を買収し、時には護身用にピストルを懐に携え、炭鉱に乗り込み経営に当たった。
その後、牧師で米国への留学経験のあった成瀬仁蔵と出会い、女子にも教育が必要と考えていた浅子は彼の著した「女子教育」に感銘を受け、日本女子大学校開校のために、伊藤博文、西園寺公望、渋沢栄一など当時の政財界人に協力や資金援助を取り付けるなど、大きく貢献した。
浅子とキリスト教
60歳を過ぎて乳がんの手術を受けた頃から、浅子は信仰に目覚める。
「天はなほ何かをせよと自分に命を貸したのであろう。嬉しいというよりは非常に責任の重いことを悟った」(『一週一信』より)
そして大阪教会の宮川常輝牧師と出会い63歳でキリスト教の洗礼を受ける。その後は「基督教世界」に“九転十起生”(きゅうてんじゅっきせい)のペンネームで多くの文章を寄稿し、大阪YWCAの創立準備委員長になるなど熱心に活動した。
晩年は、夏期勉強会を主宰し、女性解放運動家で議員としても活躍した市川房江(1893~1981年)や、村岡花子(1893~1968年、ドラマ「花子とアン」の主人公のモデル「赤毛のアン」などの翻訳者、児童文学者として活躍)などに影響を与えた。
村岡花子に贈ったポートレートには「友祈祷」という題で、「相思う 清き心を とことわに 神に祈りて 深さくらべん 浅子」(お互いに思い合う友情をずっと互いに持ち合いましょう。神様にお祈りしてその深さを比べ合いましょう)という言葉が書き遺されている。
「九転十起」を信念に生き、「女傑」ともいわれた浅子が年を取り、最後は一人のキリスト者としての信仰に生きたことが伝わってきて胸を打たれる。
展示の最後には、大同生命の社会貢献も紹介されている。同社は1992(平成4)年から障がい者スポーツへの支援を行っており、毎年、多くの役職員が全国障がい者スポーツ大会にボランティアとして参加している。また、アジア現代文芸の翻訳出版事業や地域研究者の顕彰(大同生命地域研究賞)などに力を入れ、国際交流基金の「国際交流奨励賞」も受賞している。
塚田さんは「大同生命の源流である加島屋は、大塩平八郎の乱(1837年)では、実際、被害にあっていないものの大きな衝撃を受け、以前にも増して社会に還元することの大切さを認識しました。加島屋はその年、困窮者への寄付を6度も行っています。浅子さんもそうでしたし、今でも弊社が社会貢献に力を入れているというのは、そのエートスが受け継がれ、反映しているのかもしれませんね」と語る。
塚田さんの話を聞きながら、先進性と社会貢献という大阪商人のDNAとキリスト教に基づいた他者のために生きるという信仰、その二つが、「女傑」広岡浅子という人の生涯を表しているように思えた。
9月30日まで。会場は大同生命大阪本社2階メモリアルホール(大阪市西区江戸堀1-2-1、電話:06・6447・6111[代表])。詳細は同社のホームページ。