太平洋戦争末期、米軍の沖縄上陸が現実味を帯びつつあった1944年8月。学童集団疎開の子どもたちを乗せて沖縄の那覇港を出港した「対馬丸」は、その翌日の晩、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて、鹿児島県の悪石(あくせき)島沖に沈められた。船員・兵員を含む約1700人の乗船者のうち、約8割の人が海の底に消えていった。「決して語ってはいけない」と厳重な箝口(かんこう)令が敷かれたため、犠牲者の数が多いにもかかわらず、この悲劇はあまり世間に知られないまま現在に至っている。クリスチャン女優の松木路子(本名・ファリア路子)さんは、対馬丸の子どもたちの叫び、生存者の心の痛みを知り、7年前から朗読会を開いている。9月19日には、埼玉県の草加市文化会館で朗読会を行い、約90人が集まった。
着物デザイナーでもある松木さんはこの日、「はまゆう」という花のデザインをあしらった水色の着物で登場。はまゆうは、沖縄の砂浜に多く咲く花で、良い香りで人々を引き付ける可憐(かれん)な花だ。対馬丸の子どもたちのシンボルともなっているという。今年も、4月2日には沖縄の本部町、終戦記念日の8月15日には那覇市を訪れたという松木さんは、沖縄戦の追悼歌「さとうきび畑」を歌い、沖縄の暑い夏のイメージを参加者に届けた。
松木さんは、対馬丸の子どもたちの叫びを、伊藤美子さんのピアノに乗せて、次のように代弁する。
「今、対馬丸について語ってほしい本当のことは、『夢』と『平和への希望』。戦争を語ることによって生み出される憎しみが、報復の連鎖を呼ばないように、悲しみを希望に変える努力を、生きている人々にしてほしい」
松木さんはその声に応えて、「弱者の私でも、勇気を出して語り伝えたい」と、朗読会などで対馬丸について共に考える時間を持っているという。「それぞれの形で、日常の中でも平和への思いを心に留めてもらえれば」と呼び掛けた。
会場には、松木さんに対馬丸の朗読をするよう勧めたという、ジャーナリスの橋本明氏と、松崎敏弥氏の姿もあった。また、母が教員として対馬丸に乗船したという栃木県在住の上野和子さんが登壇し、生き残った母の苦悩を語った。船が沈んでいく暗闇の中で、「先生、お母さん、お父さん、助けて」という大勢の子どもたちの声を聞いても、何をすることもできなかったこと、生死の境をさまよった4日間の漂流体験について話すと、会場からは涙をすする音が聞こえた。
上野さんの母は、子どもたちを集めて対馬丸に乗せた自分だけが生き残った申し訳なさから、沖縄に戻ることなく、栃木で一生を終えたという。「もし戦争がなかったら、私は沖縄で暮らしていた。子どもたちが忘れられてしまうことが一番悲しい」と、対馬丸の記憶を周囲の人々に話し始めたのは、90歳で亡くなる数年前になってからだったという。それまでは、心のうちの苦しみを誰にも打ち明けることがなかった。遺品の中から、手記や短歌が見つかったとき、上野さんは初めて母の心のうちを知り、やりきれなさに涙が止まらなかったという。上野さんの母が春の桜を見て詠んだ短歌を、松木さんが代読する。
「子どもらは つぼみのままに 散りゆけり ああ 満開の桜に思う」
対馬丸の事件を広く伝えるために、松木さんは「永遠の平和〜対馬丸、母の祈り」というオリジナル曲を歌い続けている。「永遠の平和が来ますように」と、祈りを込めて歌う松木さんの声に、参加者の声も重なって聞こえてくる。松木さんの書いた詩を歌詞としてまとめた作詞家の関根敏子さんは、「筆で作詞するので、涙で墨がにじんだ。二度とあってはならない戦争のこと、いのちの大切さをこの歌を通して広めてもらいたい」と話す。また、クリスチャンである松木さんは、「地球上の人たち全てが愛の器に変えられること」を願い、「人は愛し愛され、生き生かされるために生まれた」と、最後にオリジナル曲「生きて生かされて」を歌って会を閉じた。
この日、参加者の中には対馬丸の事件をこれまで知らなかったという人も多かった。70代の女性は、「九州出身なので、対馬丸のことは耳にしていたが、具体的なことを聞いたのは今回が初めて。このような悲劇が二度と起こってはならない。二度と戦争がないようにと思わされた」と感想を話してくれた。
那覇市には、海を望む場所に対馬丸記念館が建てられている。記念館によれば、対馬丸の事件に関する確かなデータは一つも残っていないという。細部にわたる被害実態調査が行われず、犠牲者・生存者の数がおおよその目安しか分からないことも、この事件の問題だという。対馬丸に関する詳細・問い合わせは、同館(電話:098・941・3515、ホームページ)まで。松木路子さんの朗読会に関する問い合わせは、株式会社ギークスユナイテッド(電話:03・6273・9110)まで。