日本中を震え上がらせた「あの出来事」から5カ月余りがたとうとしている。国際ジャーナリストの後藤健二さんが、シリアで過激派組織「イスラム国」(IS)に拘束、殺害された事件は、日本人の目に世界で起きている「残酷な現実」として伝えられた。後藤さんと生前、親交の深かったアーティストの高津央(こうづ・なかば)さんは、オレンジ色の服を着せられ、凛(りん)とした目でこちらを見据える後藤さんを「身をもって現実を伝えるジャーナリストとしての『仕事中』だった」と表現した。
高津さんと後藤さんが出会ったのは、今から6年ほど前。すぐに意気投合し、2009年11月にはジャーナリストとアーティストのコラボレーションユニット「the chord」を立ち上げた。「世界初のこの試みに、僕も健ちゃんもアイデアはあったものの、どこからどのように表現したらよいか手探りだった」と当時を振り返る。
立ち上げから間もなくして、高津さんが後藤さんを連れて、シンガーソングライター・静さんのライブへ。いつの間にか、彼らの作品と共に彼女の歌声がギャラリーに響くようになった。ジャーナリズム、アート、そして音楽は、見事な化学反応を起こし、2010年に行った東京・長崎・高松を巡る巡回展では、計1万5千人を動員。国内外から絶賛された。
あの事件から5カ月になるのを前にした6月24日、「the chord」と静さんによるCD『by your side』がリリースされた。
「このCDは、健ちゃんと一緒に作った作品です。『彼のために』というよりは、一緒に作り上げて、彼の伝えたかったこと、願っていたことを一つの作品として仕上げたかった」と高津さんは話す。
CDジャケットの表紙には、後藤さんがシリアで出会った少女マラックちゃんが描いた花の絵があった。粗末な画用紙の裏に描かれた原画を、後藤さんはその少女から「購入」した。プロのアーティストでも、何かの賞を受賞した作品でもなく、混迷の地シリアで懸命に生きる一人の少女から購入したのだ。「健ちゃんらしいと思ったね」と高津さんは話す。
CDのブックレットには、後藤さんが毎年、講演に訪れていたという玉川聖学院の生徒たちが描いた色とりどりの花や、後藤さんと親交のあったアーティストたちが描いた花が収められている。「玉川聖学院の先生に、このプロジェクトの趣旨を説明して、ご協力をお願いしたら、快諾いただきました。どの子も一生懸命描いてくれました。健ちゃんに手向ける献花です」と高津さん。白紙になっている最後のページには、CDを購入した本人が花の絵を描けるようになっている。「もともと、『chord』というのは和音という意味があるのですが、健ちゃんと僕の二音で奏でていたものに、1人、2人と加えられて、いつか世界中で和音を奏でたいという願いが込められています。購入してくださった皆さんにも『chord』の一音になってもらいたい」と話す。
ブックレットの中の一つに、涙で育つ美しい花の絵がある。後藤さんが愛してやまなかった長女、後藤麻里さん(14)が描いたものだ。「事件以来、悲しみを含む自分の感情を表現する場所がなかった。このプロジェクトに参加できて嬉しい」と話したという。
3曲収められている収録曲の最初の曲は、カトリックの聖歌「アヴェ・マリア」。静さんがいつもライブで歌う曲で、後藤さんも気に入って聞いていたという。
2曲目は「A Daily Prayer(邦題:私をおつかいください)」。巡回展のため3人で長崎を訪れたとき、後藤さんはクリスチャンではない2人を教会へ誘った。「静さん、この曲歌ってよ。聖歌隊と一緒に歌うとすごく良いと思うんだよね」と後藤さんは話し、教会の聖歌隊と話しをつけ、静さんが彼らと歌う姿をうれしそうに眺め、一緒に口ずさんでいたという。
これは、神に「主がお望みなら、弱い者を助けるために私をお使いください」という内容のマザー・テレサの祈りを曲にしたもの。後藤さんはこの歌詞を小さなメモに書き、デスクの一番見えるところに貼っていたという。「事件後、ご家族に了承を得て後藤さんの仕事場を訪れたときに、このメモを見つけて、何か後藤さんに背中を押されているような気がしました。ちょうどその時、今回のCDを制作しようかと迷っていた時期だったんです。この歌詞が何とも彼の生き様のような気がして、これはすぐに制作に取り掛からなければと思いました」と静さんは言う。
最後の曲は、聖歌「Standing on the promises(邦題:さかえの王にます主の)」。後藤さんは生前、ツイッターでもこの曲を紹介し、知り合った多くの人にこの曲の動画を送っていたという。「Standing on the promises of Christ my king」で始まるこの曲を、後藤さんはあの地でも心の中で何度も歌っていたのだろうか。
「私は、キリスト教について深い知識があるわけではありません。しかし、これは後藤さんが選んだと言っても過言ではない3曲。私の声を通して、彼の好きだったこの曲を皆さんにお届けしたいという思いで歌いました」と静さんは話す。
一方、高津さんは、「このCDが、今回の事件で傷ついている多くの方々の心のよりどころになればうれしいです。いずれ、『後藤健二基金』を設立しようと考えています。彼が愛したシリアの方々の支援、命を懸けて全うしたジャーナリストの育成のため、過酷な現場で生きるジャーナリストのメンタルケアのためにその基金を使っていきたいと思います。今回のCDの売り上げの一部も基金に充てようと思っています」と言う。
イスラム教徒の少女が描いた絵、キリスト教系学校の生徒が描いた絵、賛美歌・・・。一見、何も考えずに詰め込んだように見えるこのCDだが、「ここに健ちゃんの願いと祈りが込められていると僕は思います。宗教や人種、文化、いろいろなものを飛び越えて、世界平和を願っていたのは、他でもない後藤健二だったんですよね」と高津さんは話す。
今秋には、「the chord」の個展を再び開こうと、現在、場所探しに奔走中。「健ちゃんと作った作品、それに音楽も演奏できるギャラリーを探しているのですが、なかなか見つからなくて、苦戦しています」とのこと。
「the chord 」は、これからも重厚な「和音」となって、世界平和の祈りを込めたハーモニーを奏で続ける。
■『by your side』試聴動画
■「the chord」のサイト
■「the chord」のフェイスブック
■ 高津央さんのジュエリーブランド「GEMS SEEKER」