今年4月、ポルトガル映画界を長年支え、巨匠と呼ばれたマノエル・ド・オリヴェイラ監督が106歳で他界した。上智大学ヨーロッパ研究所は、オリヴェイラ監督の死をしのび、同大中央図書館(東京都千代田区)で5月29日、「ポルトガル映画の巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ その光と影」と題した講演会を開いた。同大外国語学部ポルトガル語学科のネーヴェス・マウロ・ジュニオール教授(ヨーロッパ研究所所員)が、これまでの研究とオリヴェイラ監督へのインタビューの内容を踏まえ、長いキャリアの中で生み出された作品の中から4本を選んで、映画の詳細な分析をするとともに、オリヴェイラ監督の映画界での歩みについて語った。
日本でオリヴェイラ監督の存在が知られるようになったのは、1994年に公開された、旧約聖書の話をモチーフとした『アブラハム渓谷』。この時、オリヴェイラ監督は既に86歳だったが、その後も『階段通りの人々』や『メフィストの誘い』など数多くの作品が日本でも公開されており、根強いファンを持つ。ただ、オリヴェイラ監督が自由に映画を撮れるようになったのは、高齢になってからだという事実はあまり知られていない。
講演の中で、最初に紹介された『アニキ・ボボ』(42年、日本未公開)は、デビューから10年目にして初めて劇場用長編映画として上映された作品だ。映し出された映像からネーヴェス教授は、オリヴェイラ監督の3つの特徴「ロングショット」「少ないセリフ」「俳優への演技指導」を挙げた。また、オリヴェイラ監督はインタビューの中で、「子どもたちが直面する問題は、大人たちが抱える問題の本質的な未熟さと変わらないことを表現するつもりだった。また、善と悪、愛と憎しみ、友情と忘恩とは何かを見せたかった」と話したという。
『アニキ・ボボ』以降、撮る映画は、観客、映画会社、ポルトガル政府から批判を受け、不遇な時代が続くことになる。しかし、74年にポルトガルで起きたカーネーション革命により、独裁政権が崩れたことで、好きなように映画を撮れるようになったという。この時既に60歳を越えていたが、90年からは亡くなるまで年1本のペースで長編映画を製作し続け、観客を驚かせ続けた。
次に紹介されたのは、『ノン、あるいは支配の空(むな)しい栄光』(90年)。この作品はオリヴェイラ監督の作品の中で、最もポルトガル的なものだという。ポルトガル史上最大の詩人といわれるカモンイスが書いた叙事詩「ウズ・ルジアダス」の中で描かれたポルトガルの栄光を、20世紀にポルトガルが行ったアフリカ植民地化とその終えんを重ね合わせた作品だ。この作品を撮った後、精神病院の患者と思わしき人々が、西欧における罪の論理について語っている『神曲』(91年)も発表している。
3番目に紹介されたのは『永遠の語らい』(2003年)で、西欧のイメージが最も鮮やかに打ち出されている作品だという。特に後半部分、船上でのディナーの席上で、米国人、フランス人、ギリシャ人、イタリア人が自国語で話してもそれぞれ理解し合えるが、ポルトガル人が入ると全員英語で話すようになるというシーンがある。ネーヴェス教授は、このことを通して、西欧においてポルトガルがどういう存在であるかを示していると指摘した。
最後に紹介されたのは、『第五帝国:セバスチアン国王の決断』(04年、日本未公開)。この作品の中で、オリヴェイラ監督は、14世紀ポルトガルのセバスチアン国王がたどった数奇な人生とポルトガルを危機に陥れる運命を再び主要なテーマとし、宗教によってまひさせられる恐怖を見事に表現しているという。オリヴェイラ監督は00年以降、ポルトガルの歴史と宗教を問題にした映画を撮るようになり、この映画でもこの2つに重点が置かれている。
スペイン・ガリシア地方でイエズス会が運営する高等学校に通ったオリヴェイラ監督の映画には、聖書的な解釈がどうしても必要となるシーンが多い。ネーヴェス教授も「それはオリヴェイラ監督がクリスチャンだったことに関係するのだろう」と話す。生前、オリヴェイラ監督は「聖書の話は好きだが、教会を通してのみの解釈はしたくない」と語ったという。また、ポルトガルの過去の歴史から、政治と宗教が結び付くことに非常に危機感を抱いていたことをネーヴェス教授は明かし、今起きている中東での問題にまで言及した。
ネーヴェス教授は、世界最年長の現役映画監督であったオリヴェイラ監督を、文字どおり、「映画人」であるとたたえ、その存在は世界の映画史上に名を刻み、永遠に消えることはないと言って講演を締めくくった。
この日参加したのは40人。オリヴェイラ監督の撮影現場を見学したことがあるという女性は、「監督のみずみずしい感性にあらためて感動した。映画をよく知らなくても、映像があったので、参加者は皆楽しめたと思う」と感想を話した。