イースター(復活祭)を前にした46日間のレント(受難節)。この時期に、演奏される機会が多くなる音楽の一つが、ヨハン・セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」だ。この受難曲は、新約聖書のマタイによる福音書26章、27章におけるイエス・キリストの十字架の受難を題材にしたもので、現在ではバッハ音楽の最高傑作と評されている。
日本では、「音楽の父」として広く知られているバッハだが、生前は、作曲家というよりもオルガン演奏家として知られているに過ぎなかった。当時の欧州で名を馳せていたのはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの方で、バッハからの面接の申し出を軽くあしらったというエピソードもあり、バッハの当時の知名度の低さが伺われる。
「マタイ受難曲」は、1727年4月11日、聖金曜日の典礼として、ドイツ・ライプツィヒにあるルター派の聖トーマス教会で初演されたというのが定説。しかし、バッハの曲は、次世代の古典派からは古臭いものと見なされ、「マタイ受難曲」も含め、バッハの死後急速に忘れ去られていくことになる。実際、この偉大な作品は、バッハの死後約100年間演奏されることなく眠っていた。
それが再び脚光を浴びるようになったのは、同じルター派の音楽家であるフェリックス・メンデルスゾーンによるベルリン公演がきっかけだった。メンデルスゾーンは、14歳の時に「マタイ受難曲」の自筆譜の写本を手に入れ、その後この曲の研究を続けた。そして1829年3月11日に、ジングアカデミーで歴史的な復活上演を行い、大成功を収めることになる。
しかし、メンデルスゾーンは、ただ単にバッハの自筆譜をそのまま演奏したわけではなかった。時代はロマン派隆盛期。バッハの時代には不可欠であったチェンバロやオルガンは過去の楽器と見なされていたため、メンデスゾーンは、現代に近いオーケストラ編成にするなど、アレンジを加えて復活上演に臨んだ。復活上演成功の鍵はこうしたアレンジも一つの要因といわれている。原典主義のこだわりを捨てたことで、バッハを生き返らせることになった。
ただし現代では、メンデルスゾーンが行ったような演奏よりも、できるだけ原典に近い演奏が主流だ。それでも、メンデルスゾーンがアレンジを加えた演奏で大成功を収めなければ、「マタイ受難曲」そのものが演奏される機会はなく、バッハが偉大な作曲家として名を馳せることもなかった。
メンデルスゾーンが、「マタイ受難曲」を復活上演させたのは、奇しくも186年前の3月11日。バッハの自筆譜には、マタイによる福音書26章、27章の聖句が赤インクで記されている。イエス・キリストの復活につながる聖句と共に、「マタイ受難曲」がメンデルスゾーンの手助けによって再びよみがえったこと。そして、その日が東日本大震災と同じ3月11日であったこと。それは、東日本大震災の復興の希望にもつながるように思わされる。こうした不思議な導きが、この名曲をより一層魅力的にしている。