「すべてのことについて感謝しなさい」とのことばが、いつも心にある。にもかかわらずいつの間にか不平不満がたまり、頭では理解し、心では感じていても、腹の底からわき上がってくるような感謝がない。説教しつつも、内なる悩みを感じていた。
行きつけの理容室で、奥様が刺しゅうをしていた。最初は裏側から見たので、何の絵柄か分からなかった。ところが表を見ると、それは美しい風景画だった。思わず見とれるほどの出来栄えだった。
その時、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)との聖書のことばが心に響いた。それは散髪をしてもらっている間も、胸に響き続けていた。
刺しゅうは、裏側に糸がたくさん出ているほど、表の絵がきれいになる。人生も同じだと主は教えてくれたのだ。裏側ばかり見ていると、恨みつらみの人生となり、ちっとも感謝できない。現象ばかり見つめていれば、感謝することより失望することが多い。イエス・キリストに従う道は喜びだと、言い聞かせながら生きることは苦しい。そうしなければならないと考えると窒息しそうだ。信仰はもっと自由でスカッとしたものなのだ。
教会に帰って十字架を仰いだ時、それはプラスに輝いていた。世の中の可能思考や積極的考え方を超えた光だった。十字架の下のほうが少し長いのは、クリスチャンは神に根ざして生きるからで、この世の思考とは異なる。神のみこころ思考、十字架思考だ。死人の中から復活したイエス・キリストが内に宿っている。聖霊思考だと、新しい転換を体験した。
十字架は根本的に、私のすべての罪と病、呪いと貧乏、死と滅びの災いを取り除くためであった。もう災いを恐れる必要はないのだ。あの刺しゅうと同じように、私の人生も裏側から見ると、何が何だか分からないところがある。悲しみと苦痛、失望と劣等感、挫折と逆境ばかりの人生だ。生まれなかったほうがよかったと思うことすらあった。それでも愛なる神は、災いではないと言う。十字架の下に来て、人生の逆境はプラスとなり、試練や問題は祝福の原因であることが、初めてはっきり分かった。
この日、新しい領域に入ったように感じた。自分の二十五年の人生のすべてを肯定できたのだ。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
自分で益に変えようと努力するのではない。神がそのように益にしてくださっているのを知っているので、心の底から感謝ができるのだ。
鳥羽へ行った時、養殖真珠の作業を見た。アコヤ貝の中に小さな貝の核を入れる。すると貝は痛いので、何とか押し出そうとする。ところがなかなか出ない。約三年から五年、その核を抱いたまま辛い時間が流れる。やがて時が来て取り出すと、それは輝きの真珠となっているのだ。
辛い苦しい人生、感謝などと悠長なことを言っておられるかという声も聞こえる。しかし、神の約束に変わりはない。人生には、一見むだと見えたことが、大きな祝福だったことがいっぱいあるのだ。すべてのことが、十字架の下でプラスになり、栄光の輝き、祝福の原因となる。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)