江戸時代にあった飢饉の際、翌年の作付けのために必要だとして麦の種籾を食べずに餓死したとされる義農作兵衛(ぎのうさくべい、1688〜1732年)がクリスチャンであったとする新説を、作家の早坂暁さんが明らかにした。読売新聞などが17日伝えた。
同紙の報道によると、早坂さんは、作兵衛が生きた地である愛媛県松前町の依頼で作兵衛について調べていたが、その過程で聖書の中に出てくる逸話と似た話があることを発見。松前町とキリスト教との関係についても調べ、当時の松前町では多くのキリスト教信者がいたという史料があることなどから、作兵衛もクリスチャンであったのではないかとする考えに至ったという。
松前町は2015年に60周年を迎えることから、記念行事と関連して地元の偉人、作兵衛に注目し、早坂さんに伝記を書いてもらうよう依頼をしていた。
早坂さんは16日に愛媛県庁で記者会見をし、「キリスト教を認めない徳川幕府の意向で、松山藩がキリスト教徒としての要素を隠し、国の農業のために殉じたとする美談にしたのではないか」(同紙)と自説を語った。一方、白石勝也町長は、子どもの頃から聞かされてきた身近な存在である作兵衛がクリスチャンだとは考えもしなかったと言うが、「義農」としての作兵衛のイメージが変わるわけではなく、町民も理解してくれるのではと語った。
早坂さんは来年3月までに作兵衛の新たな伝記を書き下ろす予定だ。
享保の大飢饉(1732年)が襲った際、作兵衛がいた伊予国松山藩筒井村(現・松前町)も深刻な飢饉に見舞われた。飢餓により父や息子を亡くすが、「一粒の種子が来年には百粒、千粒にもなる。身を犠牲にして幾百人の命を救えれば本望である」として、保管しておいた麦の種籾を食べず、餓死したとされている。一方、村人たちは作兵衛の残した種籾で次の年を乗り切ることができたと伝えられている。この話しを知った松山藩8代藩主の松平定静は感銘を受け、作兵衛を「義農」と称し、顕彰頌徳碑も立てている。