だれでもわたしについて来たいと思うなら
ルカの福音書9章18~27節
[1]序
ひと月ひと月、去った月の歩みを通して主なる神を賛美し感謝をささげ、来るべき月を展望しつつ祈りの生活が整えられるように。こうしてⅠテサロニケ5章16~18節に示されている、神のみこころに従う歩みを進めたいのです。
こうしたことを意識しながら、今回もルカの福音書を読み進めて行きます。
ルカの福音書9章18~27節を、18~21節と22~27節の二つに分け、主イエスを信じる幸いと主イエスに従い進む信仰生活・生涯について教えられ、従い進みたいのです。
[2]「では、あなたがたは」(18~21節)
主イエスは祈りの後、弟子たちに二つの質問を問われます。
(1)「群衆はわたしのことを」(18節)
19節に見る答えの内容は、8節と9節のヘロデが伝え聞いたうわさと大筋では同じです。ヘロデも弟子たちもそれなりに様々な情報を持っていたのです。
情報社会と言われる環境に生きる私たち。私たちなりに情報を集めることは必要です。同時に情報についてその性質を判断し整理することが求められます。たとえば、だれがどのような動機から伝えている情報かなど判断する必要があります。
(2)「では、あなたがたは」(20節)
情報を集め整理することは必要なことです。しかしそれで十分なのではないのです。情報に基づく判断、決断をなす必要があります。「では、あなたがたは」と、自分のすべてをかけて判断し決断して個人的に答える営みを主イエスは弟子たちに求めています。
(3)「神のキリストです」(20節)
まさにキリスト信仰の告白です。それは、まさに主なる神ご自身からの恵みです(マタイ16章17節、Ⅰコリント12章3節参照)。
[3]「だれでもわたしについて来たいと思うなら」(22~27節)
(1)主イエスご自身が十字架の道(9章51節参照)
①「人の子は」(22節)
主イエスがご自身を指す言い方。
②「必ず多くの苦しみを受け、・・・捨てられ、殺され」
この十字架の道を通してのみ、「よみがり」復活の勝利。
③「必ず・・・ねばならない」
十字架は父なる神のご意志であり、救いのご計画なのです。
(2)「だれでもわたしについて来たいと思うなら」
主イエスの弟子もまただれでも例外なく十字架の道。
①23節「イエスは、みなの者に言われた」
特別な人々に対してだけでなく、また例外もないのです。
②「自分を捨て」
主イエスは、文字通り私の「主」。「ヴィンセト・ジョイの誓約」参照(『首里福音』276)。
③「日々自分の十字架を負い」(23節)
「日々」とは、ルカだけが伝える特有の強調(マタイ16章24節、マルコ8章34節参照)。一日一日新しく、まさに一日一生の歩み。
[4]結び
(1)情報と判断・決断
情報を集め整理することは大切です。しかしそれに基づく判断・決断こそさらに大事。個人としても、家庭、教会としても。
的確な判断・決断のために(2)のことは欠くことできないことを知るべきです。
(2)「日々」の歩み
一人一人の日々の静思の時間、そのための助けとなる幾つかの書物。信仰生活においても訓練が大切です。また教会として、早天礼拝・祈祷の必要と祝福。
(3)十字架を恥としない(ロマ1章16節参照)
何を恥とし、何を恥としないか。これが、私たちの生活・生涯の整えのため不可欠。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。