そこに見えたのはイエスだけであった
ルカの福音書9章28~36節
[1]序
今回味わうルカ9章28~36節の箇所を、マタイ17章1~8節やマルコ9章2~8節と比較すると、ルカの記事の特徴が浮かび上がってきます。
[2]「御顔の様子が変わり」(28~32節)-主イエスの栄光の現れ-
(1)主イエスの祈り(28、29節)
28~36節の箇所でも、主イエスご自身の祈りの重要さを強調しています。
「祈るために、山に登られた」(28節)、「祈っておられると」(29節)、9章18節参照。主イエスの祈りと変容が堅く結ばれ、出来事の重要性を示しています。
(2)「御顔の様子が変わり」(29節)
30節以下に登場するモ-セは律法を代表、エリヤは預言を代表しています。この二人の姿を通して、旧約聖書全体が主イエスを指し示している事実を表しています。
さらにモ-セも神の栄光を自分の顔の様子を通してそれなりに表していること(出エジプト記34章29節以下、Ⅱコリント3章13節以下参照)と比較するとき、「消えうせる」(Ⅱコリント3章13節)モーセの輝きに対して、主イエスの無比の栄光が明らかになります。
ここでの出来事は、主イエスの復活後の身体(24章36節以下、ヨハネ20、21章参照)との関係をあらかじめ示しています。
何よりも注意すべきことは、主イエスの栄光が十字架の事実と決して切り離されていない点です。
31節後半に見るモ-セやエリヤが指し示している「最期」(31節)とは、主イエスの十字架の死以外のなにものでもありません。
また28節の「これらの教え」とは、27節までの直前の箇所に見る、主イエスの十字架と主イエスの弟子の十字架についての教えであることは明らかです。
十字架の事実が指し示される中で、主イエスの栄光は輝くのです。
[3]「そこに見えたのはイエスだけであった」(33~36節)-主イエスの栄光への応答-
(1)何を言うべきか知らないペテロ(33節)
主イエスの栄光が輝き渡るとき、主イエスの弟子たちはどのように応答すべきか。「ペテロは何を言うべきかを知らなかった」(33節)とルカが説明。33節前半のペテロの申し出は、的外れの応答を描いています。
(2)「彼の言うことを聞きなさい」(35節)
では主イエスの弟子たちがなすべき応答はどのようなものであるべきなのでしょうか。35節に記されている、天よりの声が明らかにしています。
同じことを聖書全体を通して明示しています。主なる神様が人に求めておられるのは、単なる宗教儀式、さらには宗教くささなどではない。
神のことばに聞き従うことであり、主イエスの声に聴従することです。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15章22節)
(3)「そこに見たのはイエスだけであった」(36節)
「イエスだけ」という一見狭く見える道こそ、コロサイ3章11節が明示する、真の豊かさの道なのです。
「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」
[4]結び
(1)十字架と栄光
(2)「そこに見えたのはイエスだけであった」
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。