理解できない弟子たち
ルカの福音書9章45~50節
[1]序
今回はルカの福音書9章45~50節の箇所を味わいます。エルサレムへ・十字架へと向かう主イエスの姿がはっきりすればするほど、弟子たちの実状も明らかになります。
[2]弟子たちの実状(45~48節)
(1)「このみことばが理解できなかった」(45節)
主イエスの受難の意味を理解できない弟子たちの姿をルカは繰り返し描きます。
たとえば18章31~34節では、さらに詳しくこの事態を描いています。弟子たちの無理解の一つの理由は、当時の人々のメシア・救い主に対する一般的な期待のためであると判断できます。ローマからの政治的解放を願い、しかもその時が近い(19章11節参照)との期待と十字架の道とは鋭く対立します。
45節後半に見る、「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである」とのルカのことばに注意。弟子たちの無理解の背後にも、なお神のご配慮をルカは認めています。さらにルカ24章45節を大きな慰めとしてもう一度味わいます。
「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」
(2)「自分たちの中で、だれが一番偉いのかという議論」(46節)
主イエスの十字架の意味を理解できない弟子たちの関心がどこにあるか率直に示しています。十字架の道と全く異なる心です。
(3)「しかしイエス」(47、48節)
このような弟子たちに、彼らの生活・生涯において十字架の道を歩むとはどのようなことか主イエスは二つの点から教えておられます。
①「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者」(48節)
当時、子供たちは律法を知らず守り得ないということで軽んじられていたそうです。その子供たちとご自身をあたかも一体であるかのように見ておられる主イエスのまなざしに圧倒されます。弟子たちの生き方がどのようなものであるべきか(Ⅱテサロニケ1章11、12節参照)、この事実からも教えられます。
②「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」
小さいとか少ないとかで否定したり軽く見てはならない点に注意すべきです。たとえば、主なる神のイスラエルに対する愛について、「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたがは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(申命記7章7節)。私たちの日常生活に深く語りかけてくる主イエスのことばとして、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(ルカ16章10節)。
何を物差しとして価値を判断するか、その物差しそのものが肝心であり、それで良いかと主なる神に問われています。
[3]「私たちの仲間ではないので」(49~50節)
49節と50節でも、判断とその土台となる物差しが問題になっています。
弟子ヨハネの物差しは、「私たちの仲間」であるかどうかです。この物差しは案外多くの場合用いられているのではないでしょうか。
仲間であれば、それだけでたいていのことが受け入れられてしまう。逆に仲間でなければ、それだけの理由で排除されてしまう。こうした心の狭さはいかに根強いか、すでに旧約時代にもその実例を見ます(民数記11章24~30節)。
①しかし神の福音に立つ教会は、そうであってはならないことを聖書ははっきり教えています。たとえばパウロは、自分でもいや御使いでも、事実何を伝えているかそのことが大切であると激しい言葉で言い切ります。
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1章8節)
またキリストの真理が伝達されているなら、その動機に賛同できないような場合でさえもそれを認めています(ピリピ1章15節以下参照)。
②主イエスがここで提示なさっている物差しは、私たちを何と心広くさせてくださることでしょうか。
「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」(50節)。私たちは、私たちが考えている以上の味方を与えられているし、多くの人々の助けと協力によりキリスト者・教会としての歩みを進めることを許されている事実を忘れるべきではないのです。
[4]結び
(1)理解する、悟るとは。特に聖書がわかるとは。「真理の御霊」と呼ばれる聖霊ご自身の助けを与えられている恵み。私たちは、すべての面で理解のため(信仰生活と学問における事実の判断、価値の判断のすべてにおいて)に主なる神の助けを求めることを許されている恵みを感謝して大胆に受け入れるべきです。ヨハネの福音書14~16章参照。
(2)「小さい」とか「少数」とかについての理解と確信。
(3)単なる仲間意識ではなく、真理を土台にした厳しさと同時に開かれた交わり(ピリピ4章8、9節)こそ、求めるべき。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。