第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
Ⅰ.世俗的価値観
B.世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素
7)排他主義、競争主義
最後にもう一つの世俗的価値観を形成している悪しき考え方について述べてみることにしましょう。それが排他主義と競争主義です。これこそが世俗社会を象徴する最たる特徴の一つです。今までに述べてきた6つの世俗的価値観を形成している諸要素の総和の帰結は、必然的に排他主義、競争主義に陥らざるを得ません。
しかし、ウルトラ良い子たちの本来の感性は、これまたこの排他主義、競争主義に馴染みません。彼らにとってこれほど恐ろしいことはないのです。先にも述べたように、彼らは元来純粋志向の持ち主で、人や物事の本質を探究し、絶対的に尊いものは何かを模索し、更にまた人や他の生き物に優しく、生命あるものには深い畏敬の念を持ち、その上彼らは目に見えない霊的、神秘的なものに強い関心を示し、更には夢や理想を追い求め、閃きや独創的な発想が豊かで、かつまた思いついた事柄には深くのめり込み易くあるという、真に多種の卓越した特性を有しています。
こうした彼らは、極めてユニークな発想をもって人や物事に対処する傾向が強いので、しばしば物事の判断が、一般人の常識的な考え方とは異なってきます。彼らにとって、人間は一人一人が掛け替えのない存在で、能力の如何や障害の如何で、断じてその人間評価をすべきではないと考えています。人間は本質的に皆平等であって、如何なる人でも、誰一人として見離されたり、見捨てられたりすべきではなく、むしろ弱く、乏しく、致命的なハンディを身に負っている人こそ、より多く愛され、重んぜられ、優遇されるべきであると彼らは思うのです。ですから、彼らが排除されたり、足手まといのように看做され置き去りにされるようなことは、断じて理解することが出来ないのです。
ところが今日の世俗社会にあっては、至るところに排他的行為や出来事、また相互に競い合って自己の願望を遂げようと、醜いまでに競い合い奪い合う競争社会が目の前に広がっています。ウルトラ良い子たちはこうした社会がどうしても理解できず、受け留められず、遂にこの社会から脱落・落後して行ってしまうのです。
彼らは決して能力がないのでもなければ、障害があるわけでもないのです。むしろ彼らこそ、その内に通常人に優った能力や感性を宿している場合が、圧倒的に多いのです。それなのに、どうして彼らは、そうなってしまったのでしょうか。その理由(原因)こそ、彼らにとって受け入れ難く、理解し難い排他主義的、競争主義的日常生活にあります。
彼らは何故かこれらのあり方や生き方に馴染めず、それどころか嫌悪感や恐怖感をさえ覚えるのです。何か理性をはるかに越えた彼らの内に働く霊性とでも言うべきものが、これらの考え方に怯え、反発するのです。
その結果、いつしか彼らはこのような社会から身を引き、これまた対人関係不全症候群に悩まされるようになってしまうのです。果たして皆さんは、このような彼らの摩訶不思議な心理を、どこまで理解できますでしょうか。しかし、これこそが彼らの現実なのです。受け留めてあげようではありませんか。(続く)
◇
峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。