第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
Ⅰ.世俗的価値観
B.世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素
5)画一主義、規格準拠主義
さて、次には画一主義・規格準拠主義という、これまた典型的な世俗的価値観を構成している更なる要素について、解説することにいたしましょう。通常この画一主義、規格準拠主義と呼ばれることが、事物や人の外的側面だけを評価する場合に適用されるのは、さほど弊害もなく、むしろ有益である場合が断然多いのですが、しかし、これがこと人間の内面や人間性そのものを評価・判断するために適用された場合には、そこにはとんでもない悲劇が生み出されてしまいます。
そもそも人間には、個々人異なった固有の特性つまり個性があり、もとよりこれは画一化出来ないものです。世界広しと言えども、同一の人間はどこにもおらず、ただ一人しかいません。言わば一人一人が皆、規格外なのです。だから、一人一人は極めて希少価値が高く、のみならず世界唯一の尊い存在なのです。一卵性双生児の瓜二つの兄弟でも、それぞれ固有の個性を持っていて、全くの別人です。
まさに人間は、“オンリー・ワン”であり、各人掛け替えのない存在です。なぜなら天地万物の創造者である全能の神が、一人一人の人間をそのような掛け替えのない存在として母の胎内で形造り、しかもその一人一人に固有の尊い使命を与えて、誕生させて下さったからです。
たとえ人々が“生まれながらの障害者”などと呼び、とんでもない“格付け”をしようとも、それは人間が勝手に決めた世俗的価値観によって判断した、全く誤った悪しき罪深い判断であって、その“障害”と呼ばれる事実の奥にさえ、人生の偉大な宝が隠されており、それがその人のより優る尊い個性を際立たせ、かつその障害を通して、通常“健常者”と呼ばれる一般人が、到底足元にも寄りつけない素晴らしい人生や生き方のあることを教示してくれるのです。ですから人間は、皆、誰でも素晴らしく、最高なのです。
ところが、こうした個性や特性、更には個々人の尊厳や素晴らしさを蔑ろにして、その生きる喜びや幸せを各人から奪い取ってしまう恐るべき過ちが、人間の行為や外観をもって画一的に、また何らかの基準・規格によって、人間性や人間存在そのものまでも推し量ってしまおうとする、いわゆる“画一主義”、“規格準拠主義”なのです。
ちなみに、この“画一主義”、“規格準拠主義”的人間評価の下に形成される人間像とは、果たしてどのようなものなのでしょうか。その典型的な例を挙げれば、戦時中の旧日本軍が成した画一的軍隊教育の齎した日本帝国主義的軍人像です。もう一つは、今日の日本の学校教育が生み出した世俗的価値観を基盤とした“偏差値教育”であり、その大なる弊害は“マニュアル人間”の造成です。いずれも個々人の個性や特性を抑圧し、個人の尊厳や独自性を奪ったり、歪めたりしてしまったのです。
その結果、自らが自由に、主体的に、とりわけ個性的に堂々と物事を選択したり、意思決定したりする能力が減退し、いつでも誰かの指摘を恐れ、また何かの規制に脅え、他者の動向を伺い、マニュアルを検索しその指示を待ち、更には他者やマニュアルとの同一性を確認しなければ、不安で怖くて、何一つ行動を起こせないといった人々が、激増してしまったのです。その果て様々な精神疾患を引き起こしたり、不登校、引きこもりなどの、筆者のよく言う諸々の“対人関係不全症候群”を引き起こしてしまうのです。
これが恐るべき世俗的価値観の一翼を担っている“画一主義”、“規格準拠主義”の弊害です。そこでお互いは、これらの考え方によくよく注意しなければならないのです。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。