第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
Ⅰ.世俗的価値観
B.世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素
3)唯物主義、物質主義
ここで唯物主義、物質主義的人生観や価値観の過ちに対する主イエス・キリストの戒めを少しばかり紹介しておきましょう。
ⅰ.人はパンだけで生きるものではない
キリスト者であるならば、誰もがよく知っている主イエス・キリストの一つの御言葉があります。それは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)という御言葉です。これは主イエスが、荒野で四十日四十夜の断食をされ激しい空腹を覚えられた時、その期に乗じてサタンが主イエスを誘惑し、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と問いかけた際に、主イエスがすかさずお答えになった御言葉です。この御言葉こそ、まさに人間が「パン」という“有限な地上的物質”によってだけ生きるものではなく、「神の言葉」つまり“永遠、無限な天的、霊的、かつ神的な真理”によって生かされる崇高な存在であることを言ったものです。
しかし、ここで思い違いして頂きたくないことは、主イエスは決していたずらに「パン」つまりこの世の「物質」を軽視したのではありません。人間が肉体を有する限り、その生存のためには動物たちと同様に絶対に「パン」(食物)が必要であり、そればかりではなく衣類や住居など様々な物質的必要事があります。これを主イエスが軽視したり、否定したりするはずがありません。
ところが、だからといってお互い人間が、動物と同様に肉体的生命維持さえ出来ればそれで良いというものでは決してありません。人間は、他の如何なる被造物たちとも本質的に異なり、彼らよりも遥かに尊い崇高な存在として神によって創造された、別格の被造物なのです。聖書ではそれを「神はご自分にかたどって(似せて)人を創造された」(創世記2・26、27参照)と表現しています。つまり人間は、動物でも植物でもなく、ましてや鉱物でなく、何と“神に近似する”尊い存在として、神ご自身によって創造されたのです。
ちなみにこの神に“近似する存在”であるということは、人間の“尊厳と限界”を明示したものであって、「尊厳」とは人間は他の被造物と全く異なって、神ご自身に似る者として、まさに別格の存在として創造されたことを意味し、またその「限界」とは如何に神に似ていようとも、人間は神そのものでなく、断じて神になることもあり得ないことを意味しています。
そこでこの神ご自身に近似するほど尊厳ある存在として創造されたお互い人間は、あたかも動物のように食物だけを摂取して、ただ唯物的に肉体的生命維持のみを図ればこと足りるといった存在では断じてないのです。お互い人間は何としても神のように考え、神のように生きなければならないのです。そのためには先ず神ご自身の存在を認識し、そこで「神の口から出る一つ一つの言葉」、つまり“永遠、無限な天的、霊的、神的真理”(これを「神の御心」と呼ぶ)に学び、かつそれに従って生きることが必要になるわけです。これこそが人間が真に尊厳ある「神にかたどって創造された」(創世記2・27b)人間となることを意味しているのです。
ですから、このように考えてみると如何に唯物主義的人生観や物質主義的人生観が、人間の尊厳ある本質に照らして非本質的な誤った人生観であるかが、よく分かると思います。実に主イエス・キリストが「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたその真意が、まさにここにあったのです。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。