第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
Ⅰ.世俗的価値観
B.世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素
1)行き過ぎた現実主義、現象主義
世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素の先ず第一は、行き過ぎた現実主義とか現象主義と言われるものです。これは更には外見主義とでも言ったらよいのかもしれません。
そもそもお互い人間が日常生活、社会生活を営む場合に、現実や現象を決して無視して生きるわけにはまいりません。現実をよく踏まえ、諸現象をよく把握した上で、そこに良き判断を下し、生活して行かなければなりません。もしそうでなければ、お互いの人生は現実離れした、極めて抽象的で何一つ具体的な問題解決に繋がらないものなってしまいます。また起こり来る悪しき諸現象を解決するのに、一向に埒(らち)の明かない不毛の人生を過ごしてしまうことになるでしょう。そこで現実をよく踏まえ、現象をよく観察し、具体的実際的に物事を処理して行くことは、極めて大切です。この意味では、お互いは常に現実主義的、現象主義的でなければなりません。
しかし、ここでお互いがよくよく注意しなければならないことは、一見この大切に見える現実主義、現象主義が、一人一人の人間の現実や現象の背後にある尊い思いや心、そして真実で純粋な動機や営みを無視して独り歩きする時、恐ろしいほど他者を裁いたり、侮辱したり、傷つけたり、更には否定したりする悪しき道具と化してしまうのです。ここではこの種の悪しき道具としての行き過ぎた現実主義、現象主義を世俗的価値観の背後に潜む恐るべき現実主義、現象主義と呼んでいます。いわゆる世俗的価値観というものは、押し並べてこの行き過ぎた現実主義、現象主義をその主たる構成要素の一つとしていることが多いのです。
そこで、このような世俗的価値観を振り回す人々には、常に他者を評価するにあたって、人々の内面にある尊い思いや聖い心、また動機の純粋性や途上のプロセスにおける真実な努力や営みなどには、一向に目を向けず、ただ一方的に外見上の成果や結末、目に見えるところの現実的結果や現象にのみその判断基準を置く人が多いのです。つまり、彼らの人や物事の判断要素や基準が、すべからく現実や現象、すなわち目に見える外見上の成果や結果にのみ向けられてしまい、その人物の内面やそのプロセスにおける考慮されなければならない重要な事柄を評価し損なってしまうのです。それゆえ、これを外見主義とも言うのです。そして実にこの現実主義、現象主義、外見主義こそが、内面や動機、事物の本質やプロセスを重視する多くの純粋志向型の「ウルトラ良い子」たちの感性を大きく抑圧し、かつ傷つける結果になってしまうのです。
この点に関してよく理解して頂くために、ここに具体例を二、三紹介いたしましょう。(続く)
◇
峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。