「かみ」は「とみ」を、人のために創造してくださっている。「かみ」から恵みとして与えられた「とみ」を、人は自由に使い、これを享受することができる。
創造主である「かみ」が、被造物である「とみ」よりもはるかに大切であることは、言うまでない。そもそも、「かみ」と「とみ」の価値を比較すること自体が、愚かなことである。
ところが人は不信仰のゆえに、目に見えない「かみ」よりも、目に見える「とみ」を頼みとしがちである。無尽蔵の富の創造主・所有主である「かみ」を愛するよりも、いつ失われてしまうかも知れない、はかない「とみ」を愛してしまう。
その結果、人は「とみ」に仕えてしまい、さまざまな不幸が生み出される。イエスはこの本末転倒を厳しく戒めている。だから、「とみ」に惑わされないようにしなくてはいけない。
けれども、これを律法化すると、「貧は善、富は悪」という間違った公式ができてしまう。この公式にこだわると、福音宣教や社会事業の働きはなかなか進まない。「とみ」を得ることにも、「とみ」を使うことにも、消極的になってしまうからだ。
「とみ」は、組織や社会の血液であると言うことができる。「とみ」が豊富で、「かみ」との関係において正常に循環している組織や社会には、健全な活力がある。「とみ」が不足して、「かみ」との関係において正常に循環していない組織や社会は、いわば「貧血状態」になり、どんどん活力が失われていく。
世の中では、いともたやすく巨額の資金が流動している。個人の外為取引高だけでも、毎日数十兆円に達している。問題は、神の豊かな「とみ」が、人のエゴにより、一部に集中して全体に循環しないことにある。神の無尽蔵の「とみ」が、人の無知と怠慢により、未発見、未発掘のまま放置されていることにある。
聖書においては、「とみ」そのものを悪とはしていない。「とみ」は「かみ」の祝福の一部であり、感謝して受けるべきものであり、決して忌み嫌うべきものではない。「とみ」を愛し、「とみ」に依存するあまり、「かみ」への愛、「かみ」への信頼が薄らいでしまうことが悪なのだと、戒められているだけである。「とみ」を愛して、自分のためにこれを貯め込むだけで、「かみ」を愛さないで、人々のために正しく使わないことが悪なのだと、戒められているだけである。
旧約聖書に出てくるアブラハム、ヨブ、ダビデ、ソロモンなどのリーダーたちは皆、大富豪であった。新約聖書をよく読むと、イエスは決して貧しくはなかった。大勢の弟子たちを引き連れて旅をし、ユダを資金の管理人に定めて、貧しい人たちに施す余裕すら持っていた。お腹を減らせてイエスの説教を聞いていた男だけで5千人、7千人という群衆に、少しのパンと魚を増やして分け与えた。
イエスが物乞いをしたり、借金をして歩いたという記事は一つもない。かえって、「かみ」 から任された「とみ」を、人は勤勉に働いて増やして、それを「かみ」との関係において正しく使わなくてはいけないと、イエスは語っている。イエスが馬小屋の飼い葉おけの中で生まれたのは、決して貧しさのゆえではなく、宿屋が混んでいて泊る部屋がなかったからである。「人を富ませるために、イエスは貧しくなられた」という聖書の記述は、すべてをはぎ取られて素っ裸で十字架につけられたイエスのことを語っているのである。
「とみ」の本当の所有権は、それを創造した「かみ」にある。もともと、神はその所有する「とみ」の管理使用権を人に与えていた。しかし、サタンにそそのかされて、人は「かみ」に反逆する大罪を犯したために、「とみ」の管理使用権は、サタンのものになってしまった。その結果、人は額に汗して働いて「とみ」を獲得しなければならなくなった。
私たちは、信仰によって、もっと積極的に 創造主・所有主である「かみ」に求めて「とみ」を獲得するべきである。また、掠奪者・殺人者であるサタンから「とみ」を奪い返して、人々を真に生かす神の国の前進のために、これを使うべきではないか。「とみ」を獲得する力もまた、「かみ」から与えられたものである(申命記8・18)。
「かみ」に仕え、「とみ」を使え。これが、私たちのモットーであるべきである。
佐々木満男(ささき・みつお)
国際弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。
■外部リンク:【ブログ】アブラハムささきの「ドントウォリー!」