豪雪の中を
「お母さん。かわいそうですが、これ以上治療しても助かりません」医者は、その子を見限りました。
「諦めなさい。もう一人子どもを生めばいいじゃないか」戦地から一時帰国した父も、哀れな姿の我が子を見放しました。
「日本は今、戦争中なんだよ。体の弱い子は皆死んでいるんだ。かわいそうだけど諦めなよ」親戚や周囲の人も皆そう言いました。
それは昭和18年、日本が第二次世界大戦に突入したころのことでした。戦火を逃れるため、生まれて間もない男の子を抱いて、母は東京から新潟の実家に疎開してきました。
食糧事情の極度に悪い中で栄養失調になったその子は、毎日下痢と嘔吐を繰り返し、母乳も全く飲むことができません。実家から何里も離れた所にある医院に通って、医者からブドウ糖注射を打ってもらうことが、その子を生かすただ一つの方法でした。
しかし、容態は悪くなる一方でした。やせ細って骸骨のようになった我が子を目の前にしても、母は諦めることができませんでした。
「一日でもいいから生きて欲しい!」周囲の反対を押し切って、母は子どもを背負い、来る日も来る日も、体が半分埋まる豪雪の中を歩いて医者に通い続けました。
途中には大きな川があり、橋を渡るにはかなり遠回りしなければなりません。子どもの体を長時間寒気にさらしてはいけないと、母は子どもを肩に乗せ、氷のような川の水の中を歩いて渡ったのでした。自分の手足が凍傷にかかっても、母は医者通いをやめませんでした。
お蔭でその子は、命を取り留めたのです。その子とは、ほかならぬ、この私です。60歳を過ぎても元気で、弁護士として働きながら、福音の伝道を続けています。
もしあの時母が諦めてしまったら、私はこの世には存在していないのです。この体験からか、私は困っている親子を見ると黙って見過ごすことができず、いつの間にか助けているのです。
母にも捨てられて
「ここで待っていなさい」ニューヨークの下街の配水管の上に座らされた13歳のビルは、母親からこう言われてずっと待っていました。
そのまま飲まず食わずで三日経ちました。でも母親は戻って来ませんでした。捨てられたのです。
不安と孤独と空腹の中で絶望していた少年を見かねたある男性が、彼を教会に連れて行ってくれました。
そこで生まれて初めて神の愛に触れた彼は、素直に自分の罪を告白して、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れました。
破綻した家庭で育ったビルは、それまで一度も父母から愛されたことはなく、聖書を読んだこともなかったのです。
しかし、その後の彼の人生は一変しました。牧師夫妻に愛されて教会で暮らすようになった彼は、大きくなって牧師になりました。
このビル・ウィルソン牧師は、今やニューヨークのスラム街で数万人の子どもたちを助けながら、たくさんの車を改造した移動教会学校で、子どもたちに聖書と神の愛を教えています。
困っている子ども、苦しんでいる子どもを見かけると、ビル先生は黙って立ち去ることができないのです。自分の体験から彼らの寂しさや苦しみが本能的に分かるからです。
諦めずに手を差し伸べてくれる人が一人でもいれば、命が助かる子どもたちが大勢います。その子たちが大きくなったら、困っているほかの人たちを助けるようになるのです。
左の頬を拳銃で撃ち抜かれても、ギャングに殺されそうになっても、三度の飛行機事故で命を失いそうになっても、律法的な教会や愛のないクリスチャンたちに批判されても、ビル先生は、キリストの十字架の愛に燃えて、決して諦めることなく、今日も貧しい子どもたちを助けるために、世界中を駆け回っています。
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。
■外部リンク:佐々木満男先生のブログ「ドントウォリー!」