第8節 ブラウンの死
妻への手紙と『ブラウン伝記』を追って、リベリアの奥地のコロジョまで来たが、最後にブラウンの死に触れておく。
「ブラウンとブッシュマンはコロジョから森林地帯を徒歩で二日半の旅をし、サノギ(Sanoghie)にたどり着いた時、そこで彼らの旅は終わった。ブッシュマンは11月25日に日射病で病没し、ブラウンは12月5日に合併症をともなう腸チフスにより病没した。婦人宣教師たちがモンロビア地区からフスゼック博士(Dr.Fuszek)を現地に派遣したが、彼の到着が余りにも遅かったので、病人に治療を施すことができなかった。」(「In Memoriam C.L.Brown」)
ブラウン自身、どのくらいの期間、体調を崩し、病床に伏したのか、『ブラウン伝記』だけではよくわからない。
ブッシュマンとブラウン、二人の死を補足する個所を、1922年1月26日に行われたボード会議の議事録から拾い上げてみると、すこし分かってくるので、そこから引用する。
「C・E・ブッシュマン夫人よりブッシュマンが1921年11月25日、サノギで日射病により死亡したことがボードに伝えられた。」(BMU,1922.1.26)
「リベリアのモンロビアより電報でブラウンの死が次のような文面でボード事務局に伝えられた。『ブラウンは、サノギで、1921年12月5日に死亡した。フスゼック博士が11月19日に派遣されたが、それは遅すぎた。ブッシュマンとほぼ同じ時期にブラウンも病に臥していた。』」(同上)
このボード議事録で記せられているように、ブラウンはブッシュマンと同じ時期に病に伏したと思われる。その時期は、フスゼック博士が現地に到着した11月19日以前であることは確かである。
「フスゼック博士の説明によると、ブッシュマンの死因は日射病である。ブラウンは、合併症をともなう腸チフスからの高熱による。」(同上)
フスゼック博士は二人が病の床で臥し、苦しんでいる時にサノギに到着したようである。けれども、極度の過労と体力低下により、治療の施しも効果かなかったのかもしれない。
ブッシュマンが死亡して、わずか10日後にブラウンも苦しみながら死を迎えた。それは、はからずも47才の誕生日を迎えた二日後であった。
「サノギに派遣されルツ・ロベソン看護婦と、彼女からの伝言を郵便配達人から知らされ、クポロスペル(Kpolopele)から急遽駆け付けたジェニー・ラルモンス看護婦がブラウンの最期を看取った。それに夫の死後、コオロジョを発って五日目にサノギに到着したC.E.ブッシュマン夫人と、さらに彼女に同行したマリー・マルテンズがその場に居合わせた。」(「In Memoriam C.L.Brown」)
ブラウンの最期の看病をしたルツ・ロベソン看護婦は、マリー・マルテンズと共に二年ほど前にC・H・ニールセン博士と一緒にペーベ病院の医療伝道に派遣された看護婦である。
「按手を受けた宣教師がその場に居合わせなかったので、現地人の伝道師であるロバート・ステワルト(Robert Stewart)が短い祈りを捧げて、葬儀が執り行われ、サノギに遺体は葬られた。彼らの死体は並べられ、彼らが命を捧げた土地と人々の心の中に眠りつづけた。」(「In Memoriam C.L.Brown」)
ブラウンとブッシュマンの、現地での二人の簡単な葬儀に関する決めてとなる資料が不足しているために、それが何日に行われたのか、残念ながら正確にはわからない。
1922年3月26日付のボード会議議事録の中に、ブラウンの遺品と彼の遺骸についての、つぎの数行が見える。
「ブロシュース氏(Mr.Brosius)から故ブラウンの遺品とその輸送に関して報告があった。これらの遺品は、ニューヨークからバルテイモアに送られ、現在、ブラウン夫人のところに戻ってきている、との報告であった。なお、故ブラウンの遺骸に関する輸送問題は、ブラウン夫人と話し合った結果、輸送を行わないことの承諾を得ている。」
このように、当初、ブラウンの遺骸をアメリカに輸送することも考えていたが、ボードとブラウン夫人の間での話し合いにより、リベリアの地に葬ることになった。そのような決断の背後には、輸送上の問題も含めて、それなりの理由が存在したのかもしれない。
こうして、ブラウンは西アフリカ、リベリアの地で伝道視察中に病に倒れ、去った。けれども、彼が情熱を傾けた伝道地の人々の心と福音宣教に生きる教会の歴史の中に今もなお永遠に生きつづけている。
補足として、リベリアのモンゴリア港に着いた後の、推測できるブラウンの旅程表とサノギにあるブラウンの墓碑をここに記しておく。
11月 5日(日)午後3時 気船にてリベリアのモンロビア
港に到着
7日(火) セント・パウロ川をさかのぼる
午後7時半 ミィルズブルクに到着
8日(水) 薬局、病院、男子校などを視察
9日(木) 女子校と病院を視察
14日(火) 奥地へ出発
15日(水) コルジョに到着
16日(木) コルジョからサギノへ
二日間の旅
25日(土) ブッシュマン、日射病にて死亡
12月 5日(火) ブラウン、合併症を伴う腸チフス
にて死亡
この墓碑【図2】には次の言葉が刻まれている。
「
追 悼
チャールズ・ラファエット・ブラウン
1974年12月3日 誕生
1921年12月5日 死亡
日本伝道宣教師 海外伝道局幹事
ヨハネ福音書15章13節~14節
設 置
北米一致ルーテル教会海外伝道局 」
(本文は「教会と宣教 第17号」日本福音ルーテル教会東教区-宣教ビジョンセンター紀要-2011年から転載しています)
=============================================
青田勇(あおた・いさむ)氏略歴
1975年 日本ルーテル神学校卒業
日本福音ルーテル教会牧師
1992年 本教会事務局・広報室長
1995年 本教会事務局長〔総会書記〕
2009年 日本福音ルーテル教会副議長
*画像は日本福音ルーテル教会のロゴ
クリスチャントゥデイからのお願い
皆様のおかげで、クリスチャントゥデイは月間30~40万ページビュー(閲覧数)と、日本で最も多くの方に読まれるキリスト教オンラインメディアとして成長することができました。この日々の活動を支え、より充実した報道を実現するため、月額1000円からのサポーターを募集しています。お申し込みいただいた方には、もれなく全員に聖句をあしらったオリジナルエコバッグをプレゼントします。お支払いはクレジット決済で可能です。クレジットカード以外のお支払い方法、サポーターについての詳細はこちらをご覧ください。
人気記事ランキング
-
カンタベリー大主教の辞任求める声上がる、同性間の性交渉支持する発言巡り
-
「解放の神学の父」 グスタボ・グティエレス氏死去、96歳
-
イスラム過激派が「異教徒」4人の処刑動画を公開 ナイジェリア
-
キリストの血の贖いの価値 万代栄嗣
-
関西学院、院長に中道基夫神学部教授を再任
-
サンタ・クロースと呼ばれた人―聖ニコラスの生涯(5)靴下の中のお金
-
ワールドミッションレポート(11月4日):中国 ある女性信者の力強い証し(3)
-
「急がば回れ」か、それとも「善は急げ」か 菅野直基
-
日本人に寄り添う福音宣教の扉(209) 創造主(神様)は本当に存在するのか? 広田信也
-
主は生きておられる(231)死を近く生きる 平林けい子
-
カンタベリー大主教の辞任求める声上がる、同性間の性交渉支持する発言巡り
-
イスラム過激派が「異教徒」4人の処刑動画を公開 ナイジェリア
-
日本人に寄り添う福音宣教の扉(209) 創造主(神様)は本当に存在するのか? 広田信也
-
「未来に向かう新たな出発点に」 淀橋教会、創立120周年記念し感謝会
-
「解放の神学の父」 グスタボ・グティエレス氏死去、96歳
-
第4回ローザンヌ会議のイ・ジェフン共同組織委員長、大会のハイライトと未来の希望語る
-
キリストの血の贖いの価値 万代栄嗣
-
関西学院、院長に中道基夫神学部教授を再任
-
「がんの治療法」と「問題の克服法」 佐々木満男
-
中絶クリニックの緩衝地帯で黙祷ささげた男性に有罪判決 英国
-
カンタベリー大主教の辞任求める声上がる、同性間の性交渉支持する発言巡り
-
イスラム過激派が「異教徒」4人の処刑動画を公開 ナイジェリア
-
「未来に向かう新たな出発点に」 淀橋教会、創立120周年記念し感謝会
-
第4回ローザンヌ会議のイ・ジェフン共同組織委員長、大会のハイライトと未来の希望語る
-
日本人に寄り添う福音宣教の扉(209) 創造主(神様)は本当に存在するのか? 広田信也
-
関西学院、院長に中道基夫神学部教授を再任
-
「解放の神学の父」 グスタボ・グティエレス氏死去、96歳
-
「がんの治療法」と「問題の克服法」 佐々木満男
-
中絶クリニックの緩衝地帯で黙祷ささげた男性に有罪判決 英国
-
「急がば回れ」か、それとも「善は急げ」か 菅野直基