佐藤氏は、東日本大震災について「ある人は『神の裁きである』と言い、またある人は『地殻変動が起こっただけだ』と言います。(震災を通して)今ほどイエス様が必要だと思ったことはありません。罪人だけがイエス様の救いを必要としているのではなく、世界の被造物が贖いを待ち望んで産みの苦しみをしています。『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたの掟を学びました(詩篇119篇71節)』とありますが、避難生活の間ずっとイエス様が御一緒だった気がしています。今回の震災の苦しみは半端ではありませんでした。イエス様は十字架にかけられる時、ビンタを受け、唾を吐きかけられましたが、福島の被災者も『女の子は結婚できない、子どもが産めない』などの噂が流れたり、他県に駐車すると移動してほしいと言われたり、また転校先で『放射能の子どもだ』と言われたり、他県の市役所に行けば、『物でも欲しくて来たのですか』と物乞いのように扱われた被災者もいたほどです。ある50代の女性は体調を崩し、他県の病院に診察にかかりに行ったら、拒絶され、『病院の中に入らないで、外で立っていて下さい』と言われました。しかし聖書では苦しみやいやしめられたことも、不幸せとは言いません。それが良いことであると言います。苦しみと辱めを受ける中で、気を取り戻すと、確かにイエス様がそばにおられました。誰も何も持たず、すべてがはぎ取られ、地べたを這いながらの避難生活でしたが、その中で本当に必要なものはわずかで良いことを勉強しました」と伝えた。
佐藤氏は震災を通して、震災前のかつての生活がまるでバベルの塔の現代版のような気がするようになったという。佐藤氏は、「いつからか、日本人の幸せのハードルが高くなりすぎたのではないでしょうか。自分の家と相手の家を比べて、ないものを探して妬むような、終わりのないラットゲームを止めなければなりません。そのようなことをしているところに、もともと幸せや足る心はありません。昔は、お客様が来ると中華そばを注文して食べたり、お父さんの給料日に手を引かれてお子様ランチを食べるだけでも幸せを感じていたのに、いつからかみんながこぞって神様抜きの幸せのハードルを上げ始め、『まだ幸せが来ない』と言い始めるようになってしまったのではないでしょうか」と述べた。
~聖書はもともと『地上の人生は旅』であると語っていた~
聖書に出て来る初代教会は旅をしていました。殉教者ステファノの葬式をして、枕するところもなく(迫害する者から)逃げながらの宣教だったのではないでしょうか。大事な人のお葬式を何回も行うのは辛いと言うことを経験しました。初代教会の殉教者の葬式も、絶対に泣きながら土を掘っただろうと想像するようになりました。旧約聖書のバビロン捕囚で、遠く異国の地に連れ去られ、70年の間故郷を失い、故郷はエルサレムシオンの都しかないと言い続けたイスラエルの民のことが思われました。私が最も心に浮かんだのはモーセのエジプト脱出でした。40年も流浪の旅を続け、ついに約束の地を前に、120歳で彼は果てました。約束の地に入れないということは、悲しい物語ですが、聖書はもともと、『地上の人生は旅』であることをこんこん切々言っていました。それなのにいつからか、地上に楽園を求めて、天を仰ぐのを忘れてしまうようになってしまっていたのではないでしょうか。私たちは、定年後に故郷に帰るのではなく、いずれ地上の生涯を終えて、天の御国に帰ることに気づき、『そうか、(人生は)ずっと旅なんだ、プロセスなんだ』ということに気が付くと同時に、山のてっぺんに到着したかどうか、目標に達したかしないか、100点かそうじゃないか、といううそくさい物差しを振りかざして生きることを止め、人生は『プロセスである』と理解することで2合目、6合目でも喜べるようになりました。私たちは(かつてあった)故郷に帰れるかどうかわかりません。しかし『帰れなければ失敗』という考えは捨てました。プロセスですから、この一年で一生分泣きましたが、涙を拭くことが人生なのだと気が付きました。3回ぶちのめされても、4回目に這い上がろうとすることを、神は見つめておられると気が付きました。一人では一貫の終わりですが、5人でスクラムを組んだことが尊いのだと気付くようになりました。それからみるみるがらがらと世界観が変わり始め、避難生活で旅を一緒にした9名の人が洗礼を受けるに至りました」と証した。
~明日が必ずあるとは限らない~
洗礼を受ける受洗者も震災を通して世界観が変わっており、「家族4人が今晩寝て、明日全員起きる保証はない。だから一番大事なことからやろう。優先順位をひっくり返さずに、神様との関係は今日決めよう」となるべく早くの洗礼を望んだという。
佐藤氏は震災を通して「キリストの苦しみにあずかった」ことについて、「不思議な物語が生まれました。学校がなくなったから、お兄ちゃんが小さい子どもの勉強を教えるようになりました。缶詰めを用いて料理をする係、高齢者を病院に連れて行く係が自然と生じ、毎日礼拝を行い、バイブルクラスも開くようになりました。『何なんだこの集団は?』と思うようになりました。聖書には教会は迫害に強いと書いてありますが、震災にも強いのかと思いました。『3.11の苦しみ』が共通の言語になりました。本当に教会は建物でもプログラムでも組織でもなく、生きたイエス・キリストの体が教会だと思えるようになりました(エペソ1・22~23)」と述べた。
~私はこの時のために生まれた~
講演の最後に佐藤氏は、現在の自分の使命についてエステル記4章14節を引用して、「エステルは普通ではない美人で、歴史絵巻の主人公でした。親もなく、国もなく、流されたペルシャの国で、王様の奥様となり、後の皇太后に上りつめました。(エステルが王妃として暮らしている時、)歴史の駒が動きました。彼女と同じ民族が皆殺しになるホロコーストの危機が生じました。養父のモルデカイは、『あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない』と迫りました。彼女は美人でしたが、ただの小娘なので、『なぜ私にそのようなことができましょうか?』とたじろぎましたが、モルデカイは厳しく、『あなたひとりが宮殿にいて助かるなんて考えるならば、あなたも滅びる』と言いました。そこで彼女は腹をくくりました。人は腹さえくくれば怖いものはありません。『死ななければならないのなら死にましょう。ただ、3日間、断食してください』と伝え、彼女が立ち上がった暁にはすべてが解決しておりました」と説明し、福島第一聖書バプテスト教会は、「小突かれても何度でも這い上がる蘇る教会として選ばれたのであって、これ以外の解釈はありません」と述べた。
佐藤氏が震災後福島に向かう途中に、娘から「お父さんが牧師になってあの教会に就任するようになったのは、このときのためだと私は思う」とのメールを受け取って、目のバルブが壊れたという。佐藤氏は「娘が親の人生を指図しやがってと思いましたが、本当にそうだと思いました。なぜ私の誕生日は3月11日なのでしょうか。自分の人生は自分で決めます。どうしてこうなったのか?とは二度と言いません。私はこのときのために生きてきました。広島で被爆した人が生きている限り語る使命があるのとも似た様な感じであると思いますが、私にしかできないことを絶対にやり続けようと思っています」と述べた。
震災から一年が経過し、奥多摩福音の家から福島県いわき市に事務所が移動、教会員の大半もいわき市に住めるようになった。福島県いわき市でのアパート探しも、奇跡的に空きが生じ、教会員のアパートを見つけることができたこと、震災で立ち入り禁止になった故郷の教会へ行く境界線ぎりぎりに常に故郷の教会を向いて祈りを捧げる復興復活教会を建てる計画も、奇跡的に土地が売られ、教会が設立できるようになったことを証した。
佐藤氏は、「震災からこの方、奇跡続きでした。火の柱、雲の柱が動いたら、お母さんの背中の後追いをする幼子のように、ただついて行けばよいことに気づきました。何年分もの経験ができることが不幸せでしょうか?私は『苦しみにあって幸せだった』と皆さんの前で証ししたいと思いますが、本当は皆疲れきっています。一貫の終わりだと思ったら神様の翼が私たちを担って再び上昇しました。」と述べ、今後も福島第一聖書バプテスト教会への継続的な祈りと支えが必要であることを伝えた。
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