農夫の種蒔きと刈り取りの出来事は人生の祝福の体験の縮図です。幸せになりたいなら、種を蒔くことです。その時忘れてはいけないのは、喜んでする心が本当の祝福をもたらすということです。昨今、一人分の幸せしか考えない寂しい生き方の人が増え、皆で喜び合う本当の幸せのない世知辛い世の中になっています。耕す人に種を備え、食物を収穫させて下さる神は、蒔くべき霊的な種を与え、霊的な義の実を豊かに刈り取らせて下さいます。神は、満ち溢れるほどの恵みを私たちに与えて下さる方です。そして、私たち自身が惜しみなく与えるようになるならば、恵みの循環を生み出し、周りの人々にも祝福や笑顔を与えることができ、世の中の知恵や力では生み出すことのできない祝福の循環の中に生きることができるのです。
1.信仰の表れであるささげもの
マルコの福音書12章に、貧しいやもめの献金の物語があります。イエスは、神殿で人々が献金箱に金を投げ入れる様子を見ておられました。その時一人のみすぼらしいなりをした女性がレプタ銅貨2枚を投げ入れました。十円玉か五十円玉2枚位のわずかな金額でしたが、イエスは、「立派だ」と感心されたのです。神への礼拝の姿勢として、生活費の全てを感謝をもってささげたことを認めて下さったのです。十分の一献金がいつの間にかしきたりのようになり、イエスが心を動かされなかった、金持ちがあり余るものの中からお決まりのようにささげた献金のようになってはいけません。神の目から見た時、ささげものは金額の問題ではなく、私たちの心のあり方です。もう一度ささげものの姿勢を整えましょう。
2.神の御業を引き起こすささげもの
ヨハネの福音書6章に、5千人の給食の物語があります。一人の少年がもっていた5つのパンと2匹の魚は、人間の計算では何の役にも立ちませんが、キリストの手に委ねられた時、神の御業を引き出すきっかけとなったのです。男性だけで5千人、女性や子どもを入れると1万人以上だったかも知れない人々の空腹を満たしたうえ、あり余ったのです。私たちが信仰や愛をこめてささげるものは、ただ額面通りで終わりません。神に用いられる時、偉大な奇跡を起こすものとして用いられることを感謝しましょう。主は、その信仰の種として蒔かれるものを求めておられます。
3.教会を建て上げるささげもの
使徒の働き2章に、教会が誕生した物語があります。教会は聖霊の力によって前進したのですが、豊かであろうと貧しかろうと皆が献げることにより、教会を支え成長させていったのです。ささげることは計算や努力の問題ではなく、聖霊の働きに促される信仰の業であり、その時感謝なことに、キリストの体である教会が実現していきます。ささげる一人一人として私たちが選ばれていることを、心から感謝したいのです。私たちがささげるのは、イエスが愛情の何分の一かではなく、命の全部を私たちのためにささげて下さったからです。喜んでささげる者へと変えられていきたいのです。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。