「・・・落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。・・・別の種は良い地に落ち、生え出で、百倍の実を結んだ」。・・・イエスは言われた。「・・・良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、・・・しっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8・4~15)
イエスは、種を神の言葉として、種蒔きのたとえを語られました。種を蒔く人が種を蒔いた時、その種は、四つの違う土地に落ちたというのです。イエスの時代の種蒔きは、ザーッと空中に振りまくように蒔いたのです。そうすると、畑に蒔かれたはずの種が、様々な場所に落ちていきました。
1.道ばたに落ちた種
歩く人に踏みつけられ、すぐに鳥が来てついばんで食べていってしまいました。イエスは仰いました。「思いつきだけで終わる人は、道ばたに落ちた種のようだ。注意しなさい。瞬間湯沸かし器のように、『それは、いいね』と思いつくけれども、次の瞬間すぐ忘れてしまい、本当に信じる世界に踏み込めない。霊的な意味で、悪魔に幸せを奪われている」。神の恵みの約束である御言葉をその瞬間、瞬間に忘れていては、何も実現しません。
2.岩の上に落ちた種
土が薄く水分がなかったので、根付かず、すぐに枯れてしまいました。三日坊主で終わる人のことです。イエスは言われました。「しばらくの間は調子良くやるけれど、問題があると、やめてしまう。そこでこそ、信仰の働かせ所、勝負所なのに」。それでは、圧倒的な恵みをいただける人生にはなり得ません。
3.いばらの真ん中に落ちた種
確かに芽を出し育ちはしましたが、周りの雑草の方が早く育ち、結局押しふさがれ、絡みつかれ、花や実をつけるまでいかなかったのです。家族の予定や仕事、確かにどれも大切なことです。でも果たして、神への礼拝をなくしてしまう価値があるのでしょうか。21世紀を迎え、神から豊かな祝福をいただく一番大きな障害となっているのは、忙しさです。いつの間にか忙しい現実の方が、私たちの心の中に与えられている信仰の確信よりも強くなると、信仰生活が崩れ、どこかで神の恵みの原則から離れてしまいます。最近、子どもも大人も携帯のメールやゲームで一日何時間も時間を奪われています。時間を無駄にしているだけの忙しさではないか、本気で考えておきたいのです。ただ形だけ信じている世俗的なクリスチャンでは、夢や祝福は実現しません。
4.良い地に落ちた種
生え出で、ぐんぐん成長し、しまいには一粒の種から百倍の実が実るほどの大収穫になりました。御言葉を聞いて守り、実践し続ける信仰の忍耐がそこにあるのです。
そもそも日曜は、クリスチャンが神に礼拝をささげるために、血を流して獲得してきた日です。古代、人から白い目で見られ、捕らえられて拷問を受け、殺される人もいました。しかし、その中でも、礼拝を守ったのです。一番大切なことを真っ先に守ること、それが、私たちを祝福へと導きます。神を礼拝することを人生の柱としましょう。
恵みの神は、命についてどんな細かいことも配慮して下さり、必要なものは必ず豊かに与えられます。この御言葉を、シンプルに試してみましょう。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。