第22章 インドへの旅
第1節 ダルエスサラームからインドへ
ブラウンは、1921年4月16日にニューヨーク港を発ってから数えると、伝道視察である東アフリカでの、4ヶ月の旅に明け暮れた生活をつづけてきたわけである。
東アフリカでの長い視察旅行を終え後、ブラウンは9月1日、インドに向けてダル・エス・サアラームからインド洋を渡る汽船に乗り込こんだ。
そして、インドの後、次にブラウンは西アフリカのリベリア伝道視察に向ったのである。
そのインドに旅立った模様を『ブラウン伝記』から語らせてみると、つぎの如くである。
「1921年9月1日に東アフリカを発って、ブラウンはインドに戻り、北米一致ルーテル教会のインド・ミッション地区の、グントゥールとラジャムンドリで二週間を過ごした。インド滞在中に彼が調べた情報及び指示したアドバイスなどがノートと日記に残されているが、それは余りにも貧しく、まとまりのない文章である。そのために残念ながら、彼の個人的な解説なくしては正確な内容を把握でない。」
インド伝道地訪問の明確な理由について、この『ブラウン伝記』は何も語っていない。また、後で触れる妻への手紙を見ても、その点についての手がかりは何も残されていない。
その訪問の目的は伝道地の視察旅行であったのか、それとも船の乗り継ぎも兼ねた私的な訪問程度のものであったのか、手元にある資料を通しての推測は難しいが、あえて想像をめぐらせば、それは両方であったのかもしれない。
ブラウンの渡航地となった東アフリカは、インド洋沿岸地域であり、さらにそこからのインドへの海路は、古来からインド洋を経てインド、アラビア半島に至る「海のシルクロード」と呼ばれる交易ルートにつながるものである。
第2節 インド・グントゥール伝道地訪問
インドでの伝道地訪問の模様をブラウンが10月4日付で発信している妻への手紙によってみることにしよう。
「 10月4日、 1921
私のインドへの旅行について書きます。 9月14日、私は土砂降りの雨の中、グントゥール(Guntur)に到着しました。この雨は私にとって、4月に米国を出て以来の雨です。その日、私たちは何もすることができず、ただ計画を立てただけでした。15日に、ビクター・マッコレー博士(Dr. Victor McCauley)が私にグントゥール周辺を見せてくれました。様々な学校やその他の部門の働きを訪ねました。15日の夜には、2人のインドの国務大臣のための催された大規模なレセプションがありました。私はそこに出席し、そこで何人かの町のエリートたちに会いました。そこでは花火があり、ケーキと紅茶、シルクや宝石などが並べられていました。
次の朝早く、マッコレー博士と私はチララ(Chirala)に行き、そこでの働きを検分しましたが、大雨に遭遇しました。そこには病院、大きな教会、学校や宣教師館がありました。この国は不安定であり、佐賀とよく似ています。あなたもご存知のように、インドは、政治的にすぐに興奮する国です。彼らはあらゆる方法を講じての非協力態度をとることにより、英国政府をインドから追い出そうとしています。チララの町は、動乱の温床となりつつあります。 その町に住んでいる2,000人の人々が自分の家や店から移動し、野原の小さなわらの小屋に移っています。彼らは独自の織りの布をかぶっています。私は村を通った時に、家ではた織りをしているところを見ました。
チララから私たちは、ハリー・ゲデック牧師(Rev. Harry Goedeke)が住んでいるテナリ(Tenali)にその晩の内に着きました。そこには、宣教師館と学校があります。建物の周りは水浸しになっていました。ゴム長靴を履いていない私は自分のズボンを脱ぎたくなかったので、それらの建物を見るために、4人の男達が私を運んでくれました。
次の日、私たちたちは他の会合とアルバリー博士(Dr. Aberly)の誕生日のために、グントゥールに戻ってきました。そこにはすべての宣教師が集っており、インド人の働き人の代表達もそこにいました。
翌日の日曜日はグントゥールで過しました。6時半に早めの朝食を取り、7時には孤児院を視察し、 8時半に教会で礼拝し、そこで話をし、9時半に女性用の病院を調査した後、再び、10時半に病院の礼拝堂で話しました。それから、12時に、アルバリー博士と昼食を共にした後、1時から4時まで、長い間、アルバリー博士と話し合いの時を持ちました。そして、4時半、日曜学校で1,000人の生徒たちに話しをしました。さらに、6時半、英語礼拝で説教した後、8時にある住宅で夕食をいただきました。
月曜日の朝早く、サテナペー(Sattenapelli)に車で向い、 そこから伝道活動を見るためにナルサアラペット(Narsaravupet)に行きました。翌日の火曜日、レンテイシンタラ(Rentichintala)の状況を見るために車で向かいました。そこには、3つの住宅、素晴らしい教会、学校及び診療所がありました。すべての建物は石造りですが、それらは地面からたくさんの石をばら積みすることにより、作られていました。
水曜日の朝早く、車で、70マイル先のグントゥールに戻りました。その午後、マッコレー博士と夫人がすべての宣教師とインドの働き人のために盛大なレセプションを用意してくれました。約1時頃に到着したので、疲れを癒すことができました。私には銀のステッキがプレゼントされました。まさに、すばらしい時でした。
それから夜中の1時、未開の伝道地である、タルパッド(Tarlupad)に向けて出発し、次の日の朝7時にそこに到着しました。私たちは一日中、この伝道地を隈なく見ました。午後は狩りを少し楽しみました。私たち約2マイルほど歩き、牡鹿を射止めました。私たちはその日の夕方に、列車に乗り、一晩かけて、約30マイル先のサムルコット(Samulkot)へ向いました。サムルコットは私たちのレース工場の本部がある所です。そこで朝食を婦人たちと一緒に食べ、その場所を見て回り、陸路でペダパー(Peddapur)に行きました。そこで、大きな高等学校を見たり、他に話し合いの時を持ちました。次の日、ドウラチシウラアム(Dow1aishwaram)に車で行き、そこを見て回りました。ここで運河伝道のために宣教師が使用しているいくつかのハウスボートを見ました。偉大なダム建設が政府により進められ、大運河の灌漑工事を見ることができました。」「Letter to Rev.G.A.Brandelle, Oct.4th.1921)
このブラウンの妻への手紙を手がかりに、アメリカのルーテル教会によるインド伝道の概要に触れてみたいが、その前にインドに於けるプロテスタント伝道の歴史を簡単に紹介しておく。
最初のプロテスタント伝道は1706年、デンマークのルーテル教会系(ハレミッション)が南インドの東側コロマンデル海岸沿いの、ベンガル湾に面する地域に、B.ジーゲンブルク(B.Ziegenblag)とH.プラシャウ(H.Plutschau)という二人の宣教師の派遣により始まった。この伝道は約百年後の1800年には、2万人の会員を数えるほどに成長した。1793年には英国宣教協会から派遣されたW.カーレイ(W.Carey)がシラムプルで伝道を開始している。
1812年になると、最初のアメリカ人の宣教師がアメリカ・ボードよりインドに派遣された。このアメリカ・ボードは1812年にマサチューセッツ州及びコネテカット州にある会衆派により設立され、次第に幅広い超教派宣教団性格をもって、1812年にインド、続いて、1830年には中国広東、1834年にはシンガポール、さらに日本にはD.グリーン夫妻を1869年に派遣した宣教団体である。
その後、1834年には長老派、1836年にはバプテスト派、1856年にはメソヂスト派からアメリカの宣教師たちが相次いでインド伝道に加わった。
その他、ゴスナー宣教団(Gossner Mission)がドイツからの宣教師を1839年に、スカンディナヴィア諸国からの最初の宣教師は1867年である。
ブラウンから妻への手紙の冒頭には「9月14日、私は土砂降りの雨の中、グントゥール(Guntur)に到着しました」とあるように、ブラウンが最初に訪れたルーテル教会の伝道地はグントゥールである。
グントゥールはインドのアーンドラ・プラデーション州の都市であり、ベンガル湾から西に約60kmの位置し、インドの首都ニューデリーからは南におおよそ1,600km離れている。
ブラウンのボードでの同僚である、L.B.ボルフ(WOLF)がアメリカ教会員への伝道アピールとして、1920年に書いた、“Harvest Field Abroad”の中には、グントゥールという都市とそこでの伝道が次のような言葉で紹介されている。
「グントゥールはベンガル湾が広がる東海岸に位置していた町である。クリシュナ(Kristna)川の南台地に位置する町である。その町の規模はおよそ、長さ100マイル、幅60マイルである。私たちのミッションは通称、グントゥール伝道と言われている。そのミツションの歴史は77年を数えている。C.F.ヘイヤー(Rev.C.F.Heyer)が1842年にミッションを始めている。宣教開始日は7月31日である。ミッションの拠点はグントゥール地区、クルヌール(Kurnool)の一部、それにネローレ(Nellore)地区である。これらの地区にはヒンドゥー教徒だけでなく、イスラム教徒も住んでいる。
ミッションの働きは、伝道師、教師、医師などを通し、さらに色々な産業も展開して、多様な階層の人々に対応している。過去の経験と成功に基づき、ミッションの方法を選んでいる。ただし、産業部門はそんなに大きな展開を図ってはいない。この部門の制度化が整えられている。伝道が大切であるので、そのためにあらゆる手段が取られている。教育、医療、産業を興すことも、それらのための手段である。福音を伝えることが最大の目的である。伝道のための最も有効な方法は学校である。そこで、福音を教え、み言葉を語ることにより、伝道の成果が得られている。医療、産業の事業でも同じことが言える。医療活動は有効であり、医師が親切な治療を行うことで、人々の心を開くことができる。そのことを通して、福音への道が備えられていくことになる。」(” Harvest Field Abroad“ The board of Foreign Missions of the ULCA.1920)
この著者ボルフは、インド伝道の宣教師として25年間務めた後、ボードの幹事として10年間在職していた。彼らのボード幹事としての担当は、アメリカ本国、宣教師候補者の選定、キャンペーン、宣教師の休暇事務、交通機関、それにアフリカのリベリア、南アメリカ、中国の伝道であった。
ボルフが「私たちのミッションは通称、グントゥール伝道と言われている。そのミツションの歴史は77年を数えている。C.F.ヘイヤー(Rev.C.F.Heyer)が1842年にミッションを始めている」と書いているが、C.F.ヘイヤーは48歳の時、ペンシルベニア・ミニステリアムからセイロンのコロンビアを経てインドでの最初のルーテル宣教師となった。彼は一度の休暇を取るだけで、15年間、インド伝道に専念し、64歳になった1857年に引退した。けれども、インド伝道への熱意は冷めやらず、76歳になった1869年12月に、ジェネラルカウンシルの要請を受けて、再びインドに渡り、ラジャムンドリ伝道に従事した。
それから約10後の1878年、インド伝道への参入のための準備に向かって積極的な歩みをすすめていたオーガスタナシノッドは、ジェネラルカウンシルの伝道に参画する形を取りつつ、フィラデルフイアのマウンテ・エァーリー神学校を卒業したA・B・カールソン(August B.Carlson)夫妻をラジャムンドリに派遣する。だが、彼は数年後に病に倒れて死去したので、オーガスタナシノッドによるインド・ミッションは短期間のうちに一時終局を余儀なくされてしまう(続きはこちら)。
(本文は「教会と宣教 第17号」日本福音ルーテル教会東教区-宣教ビジョンセンター紀要-2011年から転載しています)
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青田勇(あおた・いさむ)氏略歴
1975年 日本ルーテル神学校卒業
日本福音ルーテル教会牧師
1992年 本教会事務局・広報室長
1995年 本教会事務局長〔総会書記〕
2009年 日本福音ルーテル教会副議長
*画像は日本福音ルーテル教会のロゴ
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