うめく自然-内村のローマ書に基づいた自然観
内村は1922年の日記の中で、近代植物学書「エコロジー」の1章を読んだ感想として「多大なる興味を感じた、これは今日まで余の知らざりし学科であった、しかも多くの暗示に富める学科である、植物を外界との関係において研究する学科である、植物でさえ自己中心でない、まして動物においてをや、況して人間においてをや、万物は相関連してある一つの目的を果たさんとしているのである、万物はこれを究極学的に見てのみその意味が出てくるのである」と記しており、ローマ書8章の被造物の救いの御言葉を思わせるものとなっている。
しかしその後内村は「エコロジー(生態学)」という学問について批判的な見解を投げかけており、生態学では弱い者は強い者に負ける悲劇があることをその理由のひとつとして挙げている。
内村の大作のひとつである「羅馬書(ローマ書)の研究」では「天然は美なれどもそれは表面だけのことである。一歩深くその内に入れば、醜怪、混乱、残害、争闘である。(中略)実に人類の堕落は地の堕落を惹き起こした、人はいかに地を荒らしたことであろう、今地を母とし人類を其子とせし、母なる地はいかに豊富なる物資を子のために備えておいたことであろう」と記している。
同著の中で内村はイザヤ書11章1節~9節に書かれてある預言者イザヤの自然の在り方に対する希望が、ローマ書8章19節~22節における使徒パウロの第希望につながっており、さらに使徒行伝3章20節にある「万物の復興」でもあると記している(羅馬書の研究、第三九講)。
大山氏は内村の「羅馬書の研究」について「人間の問題から世界の大自然の問題を含む大変な大作である」と紹介した。同著で内村は石炭や石油などの天然資源について「人間の愚なる好戦心、利欲心、企業心のために濫費せられて居るのである。(中略)堕落せる人類が自然界を征服すると称して破壊しつつ来りしことは余りに明瞭なる事である」と人為的活動による環境破壊について単刀直入な厳しい批判をしている。
この頃の内村について大山氏は、「人間が救われなければならないが、自然も未完成であり、自然も救われなければならないと考えるようになった。自然がそのままで美しいという考えから、被造物も苦しんでいるという見解に達するようになった」と説明した。
十字架の勝利で天然を征服
内村は晩年の著作「人と天然」の中で「天然の征服」に関して「天然の征服と称してオライオン(オリオン)座まで出馬するの要なし。肉と其情とを十字架に釘けて、此の身に在りて大天然を征服することができる。そしてイエスは如此くにして世に勝ち給うた、即ち天然を征服し給うた。『我れ既に世に勝てり』と彼が曰ひ給ひしは此事である。そして彼の復活が其証拠である。彼は完全に天然に勝ちて其法則を超越し給うたのである」と記している。
最後に大山氏は内村が「聖旨にかなわば生き延びて更に働く。然しいかなる時にも悪しき事は吾々及び諸君の上に未来永久に決して来ない。宇宙万物悉く可なり。言わんと欲する事尽きず。人類の幸福と日本国の隆盛の完成を祈る」との壮大な遺言を遺したことを紹介した。
内村の名著である「後世の最大遺物(岩波文庫)」に尾いて内村は「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、(中略)ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである」と記している。大山氏は内村がキリスト教観に基づいて自然を深く愛し、また人生の中で生じた個人的・社会的なさまざまな経験を基づいてその信仰と自然観がより深いものへと変わっていったことを講演を通して伝えた。
昨年は内村鑑三生誕150周年、今年は新渡戸稲造生誕150周年となっている。学士館では11月3日に樋野興夫氏による「南原繫と新渡戸稲造」講演会、11月16日には大山氏による「内村鑑三と新渡戸稲造」講演会がそれぞれ行われる予定である。
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大山綱夫氏 略歴:1938年埼玉県生まれ。1962年北海道大学文学部史学科(西洋史専攻)卒。元恵泉女学園短期大学長。現在今井館教友会理事、『内村鑑三研究』編集委員。主な著訳書として『総合講義アメリカ』(共著、1979年)、Culture and Religion in Japanese ・American Relations:Essays on Uchimura Kanzo,1861-1980(共著、ミシガン大学、1981年)、『プロテスタント人物史 近代日本の文化形成』(共著、1990年)がある。