16日に行われた第7回実践いやし決起集会で、清瀬全福音教会牧師の岡田昌弘氏が使徒的実現チャーチ牧師重枝覚子氏のメッセージに引き続き夕方のメッセージを伝えた。岡田氏は、「神の力と権威、自分の十字架、聖霊と御国」について聖書に基づいて説明し、それぞれに与えられた賜物とタラント(能力)をどのように用いるべきかを説いた。
岡田氏はまず賜物と能力の違いについて、「信仰があって初めて働くのが賜物。賜物は相手の信仰によっても働き方が変わる。神によって与えられた賜物と召命は変わらないが、能力は変わる。それぞれの人間に与えられた能力は2倍にして返さなければならない義務がある」と説いた。
そのため賜物についてはそれを与えられたイエス・キリストの御名を褒め称えるべきであるが、自分の能力は誇るべきものではないと説いた。また聖霊の賜物をもらうためには謙遜さが大切になってくるという。
神の力と権威
岡田氏はルカの福音書9章を引用し、イエスが12人の弟子を呼び集め、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威を授けた箇所について、選ばれた12使徒にイエスが授けたものが何であったのかを学ぶことが大事であると説いた。
まずキリストを信じる信徒は、キリストの弟子であり、「私達皆がこの力と権威を受けていることを知ることが必要である」という。
第1ヨハネの手紙5章19節には「全世界は悪い者の支配下にある」と書かれてある。岡田氏は「この世の中は悪霊によって神の許しの範囲内で社会が組み立てられている。社会に悪がはびこらないように律法的に統制されているものの、肉的な欲や出世欲などのために政治や警察の中にも悪がはびこるようになってしまう。世の中は悪いものだけではないが、神と悪魔、光と闇のバランスで作り上げられたのが国家という存在である」と説き、悪霊を追い出す際には、悪霊にお願いして出て行ってもらうのではなく、イエスの名によって命令して出て行かせなければならないと伝えた。
またⅠコリント12章31節に「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と書かれてあることについて、岡田氏は「それぞれに与えられた賜物は貴重な働きであり、差が無いと言う人もいるが、神は更に優れた賜物を求めなさいとおっしゃっている。自分の働きの道によって、霊的な欲をもっていくことが大事。これがあるかないかによって信仰のスタイルが決まる。世にある力や権威が嫌いだからといって、神の力と権威も同じように嫌ってはいけない。この力と権威を使う相手を間違えることなく、人の背後に働く悪霊に対して使うべき。使い道さえ間違っていないのならば、神の力と権威はどんどん使わないといけない」と説いた。
岡田氏は「癒しの賜物」について「相手をどれだけ愛するかにかかっている。相手が嫌いという感情が出ている間は、癒しの賜物はあまり下さらない。どんなに相手が嫌な人であっても、祈り出すと愛情が湧き上がってくる。癒しの賜物を求めている人は、不特定多数の人たちに対して湧き上がる愛情を求めていくべき。相手を赦し、嫌いな人であっても励ますという努力をしていくと癒しの賜物はだんだん強くなってくる」と説いた。
ルカ9章3節でイエス・キリストは「旅のために杖も、袋も、パンも、金も、二枚目の下着も持っていってはならない」と説いている。岡田氏はこの御言葉について「一見常識はずれな御言葉に思えるが、人の支えに頼らず神だけに頼るべきであることが説かれている。1.人の支えに頼らず、神の支えに頼ること、2.世の道具に頼らず、神の与える道具に頼ること、3.自分の食物に頼らず、神からの食物に頼ること、4.自分の財力に頼らず神からの財力に頼ること、5.自分の世話について考えず、神の働きに献身することで、世話人が表れるという5つの奥義が説かれている」と説明した。
自分の十字架を負う
岡田氏は聖書の御言葉の意味がわからないときに、2時間ほど祈っていたところ、十字架を背負ったおじさんが立っている幻を見たという。そのおじさんに対し「あなたが背負っている十字架は何ですか?」と聞いたところ、「十字架って何ですか?分からないです」と答えたという。その瞬間、「なぜ十字架を負っているのにそれがわからないのだろうか。かわいそうな人だ」と思い、涙が止まらなくなったという。岡田氏は当時の経験について「聖霊様が示されたのかもしれないが、憐れみの感情で頭が真っ白になりわけが分からない状態」になり、祈りの中で神にこの幻の意味を聞いたという。
そのとき、幻の中のおじさんは小さく後ろに下がっており、他にも十字架を負ったおばさんや同じような人たちが日本列島の上に立っており、この様な人たちが全員自分が十字架を負っていることを知らずに負っている姿を幻の中に見て、大きなショックを受けたという。これらの人たちに、聖霊を受けイエス・キリストを信じた上で、自分の十字架を負っていることを絶対に伝えなければならないという伝道の使命感につながった幻であったという。
ルカ9章23節には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と書かれてあることについて、岡田氏は「救いの十字架と滅びの十字架がある。救いの十字架を伝えなければならない」と説いた。
岡田氏はイエス・キリストについて「聖書によれば信仰の創始者であり完成者でもある。そして私達を死から救い出せる唯一の神であり、イエス・キリストだけが私たちを死から救い上げることができる」と説いた。
岡田氏は信仰の道について「神は私達がイエス様なしには生きてはいけないと思えるようになることを望んでおり、それが現実である。自分の魂においても、心においてもそうであるべきである。そうでないと精神的なアンバランスが生じてしまう」と注意を促した。
またイエス・キリストの存在について、「イエス様は同労者としての友ではあるが、先生であり、救い主イエス様以外には救うことはできない。イエス様に対するイメージを今よりももっと上げてほしい。イエス様は命の恩人であり、天地を創られた神である」と説いた。
この天地を創られた神のイメージが出来上がったのならば、自分の十字架、自分の人生の意味について、真剣になり、はっきりと分かるようになるという。これは命の原理であり、このことがわかったら何も怖いものはないと説いた。
日々自分を捨て自分の十字架を負うことができるようになり、神に仕えることによって良いことをするならば、勲章として天にそれが残り、御心ならば地上でもそれが評価され、次の働きの拡大につながるようになるという。そしてその働きが拡大することで神様の御国の建設が前進するようになるという。
一方自分の能力でリーダーになった人は、神ではなく悪魔が褒めるようになることについて注意を促し、「忠実なしもべとして悪霊の手下とついでに病を送ったりする。出世欲の霊や病気の霊がつくようになる」と警告した。
自分の十字架を負うということは、自分の肉的な欲求を日々十字架につけ、肉的な欲求を日々釘付けにして生きていかなければならず、最後の最後までどこまで釘付けにできるかがクリスチャンとしての勝負が決まるところであるという。十字架はその人の人生の総決算であり、地獄行きの罪を負われたイエス様に救われた後に起こる色々な罪的な問題は、信じた人ひとりひとりが日々釘付けにして行かなければならないという。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などに捉われ(Ⅰヨハネ2・16)、自分がやりたい放題に生きているから十字架が重くなるのであり、重荷を軽くしたいのであれば、聖い生活をしていかなければならないことが説かれた。
十字架の重荷は聖い生活をすれば軽くなるのであり、有罪の地獄行きの十字架ではなく無罪の十字架を負った神に対しての負債を返済していくことであるという。岡田氏は「聖い生活を送ることで、負債を作らないようにして行くべきである」と説いた。
「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救う(ルカ12・24~25)」ことについては、「どのようにすればイエス様のためにいのちを失えるかについては、自分のいのちをイエス様に委ねることでイエス様がそれぞれの生き方、献身の道、奉仕の道を決められる」と説いた。
次ページはこちら「聖霊と御国の関係」