昭和期を中心に女優としてライオン奥様劇場、土曜ワイド劇場、時代劇などのテレビドラマなど芸能界で活躍し、現在は二人の息子を育て上げ、着物染色デザイナー、料理教室、CD、歌や詩の朗読など多岐にわたって才能を発揮する永野路子さんが2007年にキリスト教会で洗礼を受け、クリスチャンとなった。今後クリスチャンとしてキリストの愛を伝える活動に携わっていこうとしている永野さんの、女優としての日々からクリスチャンになるまでの過程、またこれからの若い人々へ込めるメッセージについて聞いた。
Q クリスチャンとなるに至った過程をお聞かせください。
~自分がなぜここに存在しているのか、疑問に感じた高校時代~
私は九州博多で中高一貫としての仏教の学校で毎朝お経を唱えることが習慣となる、そんな学校に通っていました。「自分がなぜここに存在しているのか」という様な疑問を感じる、そのような環境に6年間おりました。人間としての修行を積み重ねることによって、自分の罪がお経をあげることによって浄化されていくというような教えだったのでしょうか。
私の母はクリスチャンではなかったのですが、母として女性として強く素晴らしい人で、私は子供の頃一度も母に叱られるということがない子でした。そんな暖かい母で、母の怒った姿は記憶にありません。いつも笑顔の人で、真っ白いかっぽう着を身につけて、輝いていました。料理上手で愛情一杯の母でした。5人の子供を育て上げたのですが、長男である兄は、父がほかの女性に産ませた子供で、7年間子供のできなかった母は、兄を5歳から引き取り、わが子として育てました。兄は、思春期を迎え荒れる生活の中で、母と共に苦労し、悩んだと思います。そして母は、88歳で天国に召されました。その兄も、他界したのですが、兄は元々は創価学会の信者でした。しかし、そんな兄に奇跡が起こったのです。がんを患い入院先の病院で死を恐れていた兄に、病室でクリスチャンの患者さんにイエス様の証を聞くことができました。兄より先に天国に行かれたその方は、いのちの尽きるまで、証をして兄を救ってくれました。素晴らしい福音でした。
~母は鏡のような存在だった~
子供は親の後ろ姿を見て育つと言いますが、母は私の鏡のような存在でした。でもまだまだ母のようにはなれません。母の存在があったからこそ、東京に出てきてつらい時も寂しい時も、笑顔で生きて行かなければいけないと思いました。ひたすら母は家族のことばかりを考えて生活していました。
その母が亡くなる前に「路子、私は毎日一日が終わり眠る前に神様に祈らない日はなかったんだよ」、「今日も無事に終わりました。天にいらっしゃる神様、本当にありがとうございました」と毎晩祈っていたのよと伝えてくれました。今考えてみますと、「見えない神」を信じ、祈っていたDNAが私の中にもあるような気がいたします。母の時代にあって、福音を聞くこともなく、母なりの信仰と戦っていたのだと思います。今の時代は、本当に恵まれていると思います。教会もたくさんありますし、福音を自由に受け止めることも出来ます。
「母が私の母で本当に良かった」―親孝行したい時に親はなし、と良く言われますが、それが現実となりました。人間はこの地上では永遠には生きることはできません。
~女優の仕事で忙しく追われる日々~
私は九州から18才の時に上京し、カメラマン秋山庄太郎さんの撮影で、週刊紙の表紙に出していただき、それがプロデューサーの目に止まり、芸能界にデビューさせていただき、ドラマの主役に抜擢していただきました。お昼のドラマの「奥様ライオン劇場」、数々の作品のヒロインをこなし、視聴率も良く、女優としては多忙で、世間の流行歌さえも知らず、ただただ撮影に追われる日々でした。
その後監督としての永野靖忠と出会い、「姫ゆりの塔-慟哭の花」他6カ月間の作品を通じて、尊敬する人との運命の出会いと感じ、結婚を決めました。夫は土曜ワイド劇場、火曜サスペンスや、数々のテレビ映画を演出し、立ち上げ、忙しく働いてくれました。しかしその結果仕事に追われ、ついに夫は体調を壊してしまい、突然肝臓がんという末期のがんに襲われてしまいました。まだクリスチャンではなかった私は、あらゆるすべての神にすがり、夫の回復を祈りましたが、奇跡は起こりませんでした。その後6カ月間の家族4人の生活は一日一日が大切で、まだイエス様に出会っていない私は、「知られない神」(使徒17:23)に祈り続けていました。人間は絶対ということは死以外にはないと感じました。25年間の夫との生活でしたが、57歳という若さでの死は本当に残酷で、夫にとっても無念だったと思います。
~「働かなくては」―二足のわらじの日々~
夫が他界した後、監督には退職金もありませんし、一番に経済が重く押し寄せました。子供は私立の高校、中学生の男の子で、多感なときでもあり、母として強く反抗期も耐え忍びました。「働かなくては」と、女優業とブティックを両立させ、時代劇のドラマの撮影では京都太秦(うずまさ)の撮影所を往復しながらブティックの経営をしていたのですが、二足のわらじは難しく、信頼していた店員に経営の面で欺かれてしまったことがきっかけとなり、私もとうとう体を壊してしまいました。
その頃京都太秦撮影所は時代劇でにぎわいでいました。女優の仕事では、時代劇などで着物を着る役柄も多く、母が一針一針心を込めて縫ったたくさんの着物を手放すことができず、着物の布でドレスやバッグ、日傘など小物もデザインしていました。それらの作品が、TV「レディス4」の番組で紹介されたことがきっかけになり、結城紬(つむぎ)着物染色家のデザイナーとして迎えていただき、10年近く数多くの着物のデザインをさせていただいております。