菅野直基
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッションなどの地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での賛美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式など、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
日本には、春・夏・秋・冬の四季があり、時間の経過とともに季節が変わります。地球が23・43度傾斜しているからです。勢いよく成長する春、絶頂期の夏、収穫の秋、実りのない冬。どの季節も必要です。
祈りには力があります。今あなたに必要なのは祈りではないでしょうか。祈りは莫大(ばくだい)かつ絶大な力があります。しかし、祈りを過小評価することがあります。それは、サタンの偽りに騙されているのです。
自分をどう思うかというセルフイメージ(自画像)は、低くても高くても傲慢(ごうまん)です。ありのままの自分を知り、それを受け入れ、その自分を生きるためには、神を知り、神と出会う以外に方法はありません。
人を褒めることをためらう理由は、自分が誤解されることを恐れているからではないでしょうか。社交やビジネスの場で素敵な女性に対して、「素敵なお洋服ですね。よくお似合いです」とあいさつをしたら、下心があると思われるかもしれない。
ある日曜日、不眠症で悩む人が教会に来ました。牧師の説教が始まると、久しぶりにぐっすり眠ることができました。礼拝後、牧師にお願いしました。「先生、教会堂の椅子を譲ってくれませんか。これさえあれば、毎晩ぐっすり眠れると思いますので…」
通常日本では「あなたを愛しています」という言葉は恥ずかしくて使えない言葉です。その一つの要因に仏教の影響があるかもしれません。私の友人で元僧侶の牧師がいます。
1947年、イスラエルのクムランで、20世紀最大の発見と言っても言い過ぎではない、世紀の大発見がありました。それまで知られていた最古の旧約聖書写本より、さらに千年も前に記された写本、死海写本が見つかったのです。
親や友人、社会などの「こうあるべき!」「こうあってはいけない!」などの物差しに合わせて、いつしか背伸びをするようになっていないでしょうか。人の評価ばかりを気にして生きていたら、いっときも心が休まりません。
私たちは子どもの頃から、物事を「良い」「悪い」のどちらかで判断するように教えられてきました。内容を吟味するより、「良い」「悪い」の判断を重視すると、悪い方を責めたり、見下したりするようになります。
人は誰でも、苦しいことをできるだけ避けて、楽しく過ごしたいものではないでしょうか。しかし、現実にはそうはいきません。水戸黄門の主題歌に「人生楽ありゃ苦もあるさ」で始まる歌がありますが、人生には、楽もあるけれど苦もあります。
聖書には「はからずも」という言葉が10回程度使われています。聖書は何十回も読んでいるので、何百回も「はからずも」という言葉を読んでいることになりますが、そのほとんどが他人事だったのではないかと思います。
牧師になったばかりの頃は、日曜日の礼拝の説教準備だけで頭がいっぱいでした。それに加えて、早天祈祷会や水曜礼拝、金曜賛美集会などの説教もあったので、いつも追うものがいないのに追われているような状態でした。
人は、誰かから認められ、愛され、喜ばれたいと願いながら生きているのではないでしょうか。それが本能だからです。この聖句で書かれている「主人」とは、神様のことです。
うまくいかないことをすべて人のせいにする人が多い。だから、うまくいかないことを自分のせいだと考える人がいたら、「えっ!?」と思うのではないでしょうか。しかし表向きは「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもすべて私のせい」と言っていても…
人を頑張らせる動機の一つが承認欲求です。SNSで発信し続けるモチベーションの一つは、承認欲求ではないでしょうか。「いいね!」「素晴らしいですね!」と言ってもらいたいのです。
日本人は自己肯定感の低い人が多いといわれます。クリスチャンになり、米国留学をしたことで、その問題と長いこと向き合ってきました。神様が「愛している」と言ってくださるのに、どうして素直にそう思えないのだろう、と。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」(2テモテ2:12)。上記の聖句が語る「耐え忍んでいるなら」というのは、イエス様のために味わう苦難のことです。
聖書は私たちの人生脚本について「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語ります。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」
神の愛は、裁きのときに一番強く輝きます。夜空に星が輝くようにです。神の愛は、砂漠の中のオアシスのように、かゆいところに手が届くようにありがたいものです。だから福音(祝福の音信)であり、GOOD NEWSなのです。
聖書には「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)と書かれています。神が私たちを喜ばせることはできても、私たちが神を喜ばせることはできるのでしょうか。