岸氏: まず第一に、教会の牧会者が指導者としての資質を磨き、実力を十分につける必要があると思います。一般社会におけるリーダーシップは、非常に強力で、しっかりとした学習と訓練があります。教会においてこそリーダーシップの基本理論を繰り返し学んで、教会全体を統率する力をつけていかなければならないのではないでしょうか。
第二に、何よりもイエス様が最後の晩餐で弟子たちの前にひざまづいて、しもべとしての指導者のあり方、サーバント・リーダーのあり方を示されました。教会のリーダーシップは世のリーダーシップと根本が違います。このサーバント・リーダーシップから離れたリーダーシップは、教会にはなじまないはずです。サーバント・リーダーシップというイエス様の御心にしっかり迫ることを土台にしたリーダーシップ論を展開しています。その中にこの世界が極めているリーダーシップ論をうまく組み込んでいます。
CT: JTJの理念に「穏健な福音主義」とありますが、穏健な福音主義と過激な福音主義の違いはどこにあるのでしょうか?
岸氏: 「だれでも・いつでも・どこででも」というのがJTJのスローガンです。「福音の理解に一致を、信仰の表現に自由を、すべての主にある交流に愛を」-これが穏健な福音理解に立つあり方であると信じます。過激な福音主義者は、「互いの福音理解が違う」ということで相手との関係を切ってしまいます。「われわれが最も正しい福音主義であって、あちらはおかしい」というので互いに裁き合いが起こってしまいます。当然信仰の表現に自由を認めません。「信仰の表現はこうでなければならない」、「こういう要素が入ってきてはならない」などと決めつけてしまいます。しかし「いのちの現れ」は非常に多様であり、異言を話すこともあれば、若い人たちの叫ぶような、踊るような賛美もあれば、吠えるような、泣きつくような絶叫の祈りもあれば、沈黙や黙想を礼拝の根本に置く教会もあります。信仰の表現は多種多様です。「信仰の表現はこうでなければならない」、「他の表現の仕方は認められない」という独善が福音主義を標榜する諸教会の中には依然として強いのではないかと思います。
主にある人々全てが交流し、教会には愛があるべきなのに、「この教派・教会には愛を与えない、協力を許さない、呼びかけをしない」などということがあってはならないはずです。すべての主にある教会の交わりに、カリスマだろうが自由主義的であろうが、イエス・キリストを告白し、イエス様を愛してイエス様についていこうとする全ての教会に、差別のない交流の手を差し伸べて行くということができないで、偏ってしまっているのが「極端な福音主義」と言えると思います。そうではなくキリスト教会の右から左まで「全ての信徒に愛の手を」というのが穏健な福音主義であると信じます。
CT: 教会の活動におけるホームチャーチ、ハウスチャーチの果たす役割についてどのように考えておられますか?
岸氏: 地域の未信者の方々が教会堂に足を運ぶということは、かなり勇気や決断が必要なことで、ためらいがまず大きいと思います。宗教は怖いとか、一度行ったらつかまってしまわないかとか、日本の独特の歴史とか文化土壌がそういう警戒感を与えていると思います。ハウスチャーチやホームチャーチですと、普段着のままお茶飲み話で集まっていただくことができます。
そのような日常生活空間で自然に広がっている交流の中で、イエス様を知っていただくことができます。これは「伝道の新しい皮袋」のひとつのあり方と言えると思います。そしていわゆる二人三人がいるところにイエス様も共にいて下さるという「教会の核」を全国の地域社会の中にたくさんつくることです。そこに近隣の人たちにイエス様を知ってもらう機会を設けるという活動であり、これは世界的にひとつの傾向になっている運動でもあります。
大きな教会よりも小さい教会に行きたい人たちもいます。心の通い合う10人前後の教会生活の励ましをしていきたいという流れは、時代と世界のひとつの反動的な動きであるとともに、人の基本的な願望でもあるはずだと思います。40~50人の中規模教会の組織化や制度化が進んで、大教会の真似みたいなことをやっていくのは嫌になってきて、もっと自由闊達な信仰の励ましの共同体で生きて行きたいというタイプの人たちも少なくないと思います。そういう人たちによって、そのような新しい形が進んで行くというのは良いことだと思います。確かに大教会の制度的な有り方もインパクトや力があってすばらしいです。それぞれの信徒がのびのびと信仰生活、教会生活を送れる場所を選んで行けば良いと思います。「これでなければならない」ということで絶対化しないで、あれもこれもお互いに認め合うようなあり方が、伝道の壁を破って行くことになるのではないかという期待感もあります。
CT: これからインターネット講座の受講を考えている人へインターネット講座で神学校の授業を受ける魅力を教えてください。
岸氏: JTJ神学校の受講料や諸経費はもともとたいへん安く設定してありますが、さらにインターネット講座はDVDと比べますと年間5~6万円程学費が安くなります。インターネット講座ではオフラインでの教育環境を準備する手間が省けるため、受講料を安く設定することができました。そして何度でも繰り返して過去の講義を引き出して勉強することもできます。そして時間に縛られずに、自由な時間に自宅にいながらにして神学の勉強をすることができます。DVD講座も同様ですが、手元に全時間割、全講義があるという状態で学べるという点でとても便利だと思います。インターネットの接続環境さえあれば、パソコンですぐに自分の学びたい講座を呼び出して勉強できるという点でもDVD講座よりもさらに利便性が高いと思います。
CT: 通信制の学生が実際にJTJ神学校の先生方や学生たちとの交わりを持つ機会はあるのでしょうか?
岸氏: 全国各地区において、スクーリングを行います。講師の先生に各地区へ行っていただいて、通信制の学生が、直接先生に会って、講義を聴いたり、質問したりする場を設けています。お互い学生同士が知り合って交流を持つきっかけを作ることにもなる各地区のスクーリングを活発に進めていきます。学友会も各地区に独立して存在しており、ほとんどの都道府県にひとつずつの学友会が立ち上がっています。学友会の中でリーダーを決め、各県の通信生や卒業生の交流を盛んにしていきます。実際に先生や学生と直接顔と顔を合わせて学ぶことができないという通信制の持つマイナス面をどう解決していくかということが私たちの課題です。
CT: これから神学校に入学したいという方に励ましのメッセージをいただけたらと思います。
岸氏: JTJの全体の時間表の中から「これを勉強したい」という単品を選んで、学んでいただくという学び方が、すでに牧師の立場で戦っている特に若い先生たちには、助けにはなるのではないかと思います。これから勉強しようという人たちは、牧師になるならないにとらわれずに、チャンスがある時に聖書全体を組織的に統一的にじっくりと学んでみることをお勧めします。このような学びは、牧師でなくとも教会員としてもとてもプラスになることだと思いますし、学んでいる中で召命を受ける人も少なくはありません。学んでいる中で牧師ではなく別の形で世界宣教に貢献しようという他の職業への召命を確信する人たちもどんどん出てこなければなりません。「召命がないと入学できない」、「献身がないと入学できない」という枠をJTJは取っ払っています。
「聖書を学びたい」、「神学を勉強したい」という情熱がおありでしたら、召命のない人でも大歓迎です。JTJでは召命と同時に、「志願」を非常に大切にしております。召命があるという証拠は「湧きあがる志願」にあります。志願の心がなければ、召命は片手落ちです。嫌々ながらに神様の召命を頂いたから神学校に行って牧師にならなければならないというような動機と情熱の低い人に牧師になっていただきたいとは思いません。「ぜひ聖書を学びたい」、「ぜひ牧師になりたい」という志願と情熱は、召命と表裏一体だと思います。召命と志願のどちらかが先に来て、勉強していくうちにこの二つが揃っていくという場合が多いと思います。どんなに召命を受けていても、最後には教会の試験を受けることになります。説教が一定のレベルに至っていなければ、教会はその人を説教者として用いることを断ります。教会の最後の試験に合格しない限り、教職者としては認められないことになってしまいます。動機が神様の召命によるものであれば、教会の試験に通過できるでしょう。もしできなければ、他の立場で教会に仕えていくのも良いでしょう。そのときには神学校で勉強したことはとてもプラスになって、教会の指導者として活躍できるでしょう。神学校で学ぶことをためらわないで、勉強ができるときに、飛びこんで下さい。教室や通信制で勉強しながら、それぞれの将来を考えたら良いと思います。
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