宣教史上重大な意義をもつ「マンハッタン宣言」が米国で発表された。多様な情報と聞こえの良い偽善が溢れる社会のなかで福音に生きるキリスト者の根本的価値観と実際的課題に対する立場を簡潔に示した点を評価したい。
宣言の内容は、1)人工妊娠中絶など生命を損なう行為への参加を拒否し、2)非倫理的な性的関係を結婚と同等に祝福することを強いる命令を拒絶し、3)倫理と非倫理、結婚、家族について真理を宣布しつづける――というもの。法的効力を含むどのような理由であっても、この一線を越える事柄について信仰上の信念を妥協しないとの決意表明だ。
人と政府の関係について聖書は、家族、教会、政府など全ての権威は神によって立てられたのだから、人は権威に従うべきであると教えている(ローマ13:1)。しかし、その従属は権威者に対する恐れによるのではなく、神の秩序に従って善と義を行う聖潔を前提としている。マンハッタン宣言は、その前提に反して不義の法と人に不義を行わせる法が生まれようとしていることに対する信仰的危機感から作成された。
神に立てられた権威に対する不服従は、キリスト者にとって信仰の最終的実践であり歴史的決断だ。使徒が「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と忠告したとおり、キリスト者に思慮深い判断が求められるときがある(使徒4:19)。
「信仰の自由」は人間の尊厳の保障を意味する。尊厳は神から人間に与えられた性質だ。だからわたしたちは、神こそが良心の主であると告白する。神の統治から逸脱して生まれたものには制約がなく、単なる快楽主義に陥る高い危険性を内包している。
キリスト者の尊厳は、中絶などの実際的課題について異なる見解をもつ権利の否定と同一ではない。また、特定の価値観を法律によって特別に保護し、その価値観に対する批判を封じれば、信仰と聖書という価値観に基づく生き方をキリスト者から奪うことになりかねない。これは、全個人の尊厳を平等に守る法と義に反している。
社会で一度標準化されると、改めて是非を問うべき問題として再認識されることが困難になる。米国はいま、どちらか一方の信念が他方を圧倒することを決定づける岐路に立たされようとしているのだ。
社会が誤った選択をしたために、教会、キリスト者、わたしたちの子孫、そして全ての魂が、歩む必要のない長く険しい道を歩むことは防がなければならない。
迫害が迫るとき、必ず神の御手のわざも行われるだろう。しかし、だからといって、社会の秩序を守るための努力はキリスト者に必要ないということにはならない。時が良くても悪くても、神とキリストの福音を完全に伝える義務がある。
キリスト者が何を尊重しどう証しをするかについて、信仰を持たない人の目線と言葉で説明することが大切だ。
信仰上従うべきではないという意志に反して行動を強制されるという倫理的課題に直面したとき、権威者に対して、信仰を拠り所とする義と聖潔を宣言するキリスト者でありたい。