イエスは寒村ナザレの一大工であり農夫であった。彼が優れた大工であり、賢い農夫であり、誠実な信仰者であったことは容易に考えられるが、それだからといって彼について騒ぎ立てることは何一つなかった。家族、教育、仕事、信仰、経済など取り立てて話題にするものはなかった。少なくともナザレの人々の目には、イエスは他人より少々優れた人くらいに映っていた。次の帰郷物語は、その点を証明している。
この時点で、イエスはガリラヤの町や村を回っては教え始め、教えを喜んで聞いた人々は、新鮮な興奮を感じながらイエスをあがめていた。彼の評判は高まり、イエスは力を帯びて故郷に帰られた。
しかし、その評判は寒村ナザレにまでは伝わっていなかった。この事件はイエスが二十年以上も暮らした小さな閉ざされた故郷ナザレに帰ったときに起こった。
安息日になったので、イエスはいつものように礼拝するために二十数年以上も慣れ親しんだシナゴグに入った。久しぶりに姿を現したイエスは、聖書を朗読するように頼まれたのでイザヤ書の巻物を要求すると、係りの者から聖書の巻物が手渡された。イエスは注意深く羊皮紙でできた巻物を開き、預言者イザヤが書いた一つの箇所を探し当て、凛とした力強い声で朗読された。
イエスの朗読の声を耳にした人々は思わず頭を挙げてイエスの顔を見つめた。今までと違う、みなその変化を直観した。今回の朗読を聞いた者たちは、イエスが読んだ言葉がそのまま飛び出して現実になるように感じたのだ。聖霊の力を帯びて朗読していたのだから、今までと違ったのはしごく当然である。彼らは、朗読していた男がイエスであることすら忘れてしまった。
聖書箇所は、メシヤが登場するときに神の霊の注ぎを受けて病気や苦しみに束縛された者たちを解放する伝道活動を行う、ということが予告されていた。
旧約聖書では、王や祭司や預言者が、その職務につくときオリーブ油が頭に注がれたのだが、その油注ぎの儀式は職務を遂行するために特別の霊力が与えられることを象徴していた。
その霊力を受けたイエスは、ただ聖書朗読していたのではなかった。その時、そこに起こっていた霊的現実の宣言をしていたのだ。イエスは、その場でその時、これからの宣教活動に伴う聖霊の注ぎを体験していた。数百年前に予言されていたことが起こりつつあったのだ。
わたしの上に主の御霊がおられる。
主が貧しい人々に福音を伝えるようにと、
わたしに油を注がれたのだから。
主は、わたしを遣わされた。
捕らわれ人には赦免を、
盲人には目が開かれることを伝えるために。
しいたげられている人を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。
自分に起こったばかりのメシヤの油注ぎ宣言なのだから、その朗読には何とも言えない迫力があった。朗読を耳にした会衆は一人残らず目を大きく開いてイエスの顔に目を注いだ。イエスは静かに巻物を巻き返し、係りの者に手渡して座られた。
イエスに引きつけられ圧倒されている人々の表情を見たイエスは再び立ち上がり、力強く言い放った。
きょう、聖書のことばが、
あなたがたが聞いたとおり実現しました。
その場は人々の驚きの声で満ちた。みなは、イエスの口からあふれ出るめぐみの言葉に感心し、驚嘆してはほめたたえた。この時点では、イエスの朗読とメシヤ宣言の力と恵に魅了されて、それが大工のイエスであったことを忘れていた。
しばらくして興奮がさめると、彼らの知っていたイエスであることに気がついた一人の男が「この人はヨセフの子ではないか」というとざわめきが起こり、その場は騒然となった。人々は美しい夢から目覚めたようだった。こんなすばらしいことが現実であるはずがない、と思った。だまされたんだ。怒りがわいてきた。
すると、その時までの感嘆は打って変わり、厳しい中傷になった。「母マリヤとは井戸端でおしゃべりする仲よ。」、「弟のヤコブとヨセは俺たちの仕事仲間だ」、「妹たちとは、遊び友達なの」などと、口々に家族の名前を出しては、イエスに対抗してきた。
お前はどうして何者かであるかのようにそんな話し方をするのか。権威ぶって語るが、お前にどんな資格があるというのか。お前は俺たちと同じ大工で、農夫だろう。学問のないただ人のくせに、田舎者のくせになまいきだぞ。
会堂にいた人たちの怒りはあっという間に頂点に達し、爆発した。
男たちは立ち上がって、イエスを会堂から町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとしたのだ。 (次回につづく)
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。