キリストを信じた者は、キリストを宿すが故に、行いや生活がキリストにあって変えられると聖書には書いてあります。「光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせる」(エペソ5:8、9)
今、平安の中を生きています。今日は朝からクグロフ型でイチゴのババロアを作りました。午後にはレース編みをしながら好きな音楽を聴くことでしょう。義父母と夫への夕食作りも楽しい時間であり、庭の世話も喜びを与えてくれます。玄関前の花壇には、大好きな月見草が花弁を開き始めました。
しかし、そんな恵みに満ちた日々が続くとなぜか、飲めないお酒を買ってみたくなります。アルコール度数3パーセントのサワーです。先日のゴールデンウイークには、赤い口紅をひいてみました。夫は私を乗せて車を走らせてくれました。マクドナルドのドライブスルーでナゲットを買うと、やめたはずの加熱式たばこを口にくわえます。サワーを飲み、景色を眺めながら、昔よく聴いたアンビエントを流しました。緑が風にそよぐのを見つめていました。
私は真面目なクリスチャンになどなれない。ちゃんとした主婦になんてなれっこないのだ。そんなふうに心が暴れるのです。過去には虐待もハラスメントも、病気を持ちながらのつらい労働も経験しました。苦しみを抑えてひねくれて生きた若かりし頃は、奔放に生きていたとも言えます。そんな過去は今のどんなに平穏で幸せな生活にあっても回収できないでいたのです。
そんな反抗心を特にクリスチャン仲間には隠していました。しかし先日クリスチャンの姉妹が来た際に、自棄になるとお酒やたばこに手を出してしまうことを打ち明けたのです。すると姉妹も「同じよ、私もそういうところあるわ」と打ち明けてくれました。その時、何だか心の深いところで姉妹と分かり合えた気がしました。
教会には真面目な人たちが集っていると思いがちです。立派な真面目な人たちが、規律正しく暮らしているのだろうと、どこかしら入り込めない壁を感じやすいのではないでしょうか。しかし、そのような心のうずきのある人も少なくないのかもしれません。
もちろん、たばこや酒やあらゆる放縦を肯定するわけではありません。健康も害します。お金の使い方としても、御心にかなっているとは言えないでしょう。私たちは聖霊様を頂いている神様の宮であり、この宮を大切にすることを聖書は示しています。それは神様の厳しい戒律などではなく、神様が愛をもって、私たちの幸せのために示してくださっていることです。
私もいつかは、自分を大切にできるようになることを願っています。しかし、私たちの弱さも同時に神様はよく分かってくださいます。心の傷や痛みも知ってくださっています。だからこそ、ゆっくりと癒やしは働いていくことを信じています。
夫はこんな私の反抗に付き合いながら「『酒を心の苦しむ人に与えよ』(箴言31:6)とも書いてあるからね」と笑ってくれます。そして、気が済むまで車を走らせてくれるのです。神様と共に、ゆっくり伴走してくださいます。
(絵・文 星野ひかり)
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