私たちの人生にはさまざまな苦難があります。それでもイエス様は「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われます。
感謝を失うと、世の中の景色がかすんで見えます。風が吹き、私たちに神様のご臨在を示します。
決してやさしいばかりの風でも、また神様でもありません。中学生の頃は自転車をこぎながら、雨風に打たれ、この世界とはなんと厳しいのか、と思った覚えがありました。
空には月星が輝き、神様の配置された美しい夜空が開かれております。しかし幼い頃には、宇宙の始まりと終わりを思って背骨が凍えるほどに恐怖したことすらありました。
私は統合失調症の不調の中にここ数週間おり、そのために感謝を失い「生きていたって……」という気持ちにすらなっておりました。愛した街の景色も、自然の美しさも心に響かず、景色は白んで見えました。
そのような中で、母が賛美歌を作ってくれました。「苦しみにあったことは私にとって良い事。それによって私はあなた様のおきてを知りました」。この詩編119編71節の言葉にメロディーを付けたのです。
私はこの苦しみを通して、自分の罪が示されたことを考えました。私はあまりにも神様の御言葉を軽んじ、次第に恵みに甘んじて、家族や周りの人への感謝も忘れていたのです。
しかし、それ故に神様は苦しみをも用いたのだと思いました。私は自分の罪を悔い改め、神様に土下座をして泣く夜が与えられました。
神様は決して義人の神様ではありません。私たち罪びとの神様です。そして私たちは、富に引かれることもあれば、人を軽んじることもあります。それであっても神様の方に向き直ろう、向き直ろうとする者を神様はお見捨てにはなりません。
私も罪深くありながらも、神様の方へ神様の方へという ‘心だけ’ はありました。ですから、神様は苦しみを用いて「もっと良い人生が与えられるように」と願いを込めて、罪を示してくださったのだと思います。
神様は良きものを下さるお方です。私たちにとって悪いものをお与えになるお方ではありません。
時にその御怒りの激しさに震えることもあります。それでも決してお見捨てにならない神様です。愛しているからこそ、御怒りもまた激しくあり、その御怒りの奥には、私を失いたくないという強い愛があったのだと、思うのです。
幼い頃、父に海に連れて行ってもらったことがありました。毎年恒例のウニ採りでした。今では禁漁区になってしまいましたが、その頃は許されておりました。
荒い海にたたかれながら岩場にしがみつき、海水は目にも口にも辛いほどでした。その時、奥へと潜る父の焼けた背中の大きさをよく覚えております。どんなにしがみつきたかったことでしょうか。
父は今、病に侵され、母に懸命の介護を受けています。できないことは増えてきましたが、ずいぶん優しくなりました。
さまざまな精神症状を始まりとして発症した統合失調症になった思春期には、理解できない私への扱いに困った父は、私をたたき蹴り、なんとか「普通」になるようにと父なりに苦悶(くもん)しておりました。それを虐待だと何十年も恨んでまいりました。
確かに父がしたことは正しくなかったでしょう。しかし今、父の温かなまなざしに、幼い頃に与えられた愛情を思い起こしています。父の愛は、天の御父の愛を思わせました。愛しているからこそ必死でした。
もちろん父には精神病への不理解がありましたし、決して肯定できることではありません。しかし、たたき、蹴り、時には髪の毛をつかんで家を追い出してでも、私に「まともに」なってほしかったのでしょう。今となっては父の苦しみもよく分かるようになりました。
残念ながら、私は長い間ひねくれ、父の願うような成長は遂げられませんでした。しかしこの年になり、ようやく父を愛し、父に愛される娘に戻ることができたのです。
あの海の背中に、私はもう一度立ち返ることができたのです。そして、天の御父の愛に……。
(絵・文 星野ひかり)
◇

















