イエス様は、私のような者を得たいがために、十字架についてくださいました。それがイエス様の受難でありました。このように悪く、ぶざまで、破れだらけの者を、十字架にかかってまで罪を贖(あがな)い、得たいと思ってくださったのです。
なぜか。聖書にはこう書かれています。「神はその独り子を与えるほどに世を愛された」。このように争いばかり、罪に吹き荒れる私に、そしてこの世に、神様は目を留めてくださったというのでしょうか。天の万象さえ配置される神様が目を留めてくださるとは、この私とは、人間とは何者だというのでしょうか。
人は踏みにじられた記憶があると、自分に価値がないと思い、自分を罰したり、痛めつけたりする傾向があります。私も例に漏れず、そのような節があります。学歴もなく、誇るべき経歴もない私は、世に出ても踏みにじられるような経験がありました。数年間に及ぶうつ病を患った若い時代がありました。
神様が目を留められたのは、私たちのうめき、叫びでもあります。人間の生きるさまは、時に痛々しいものではないでしょうか。
エジプトの捕囚であったユダヤの民の過酷なれんが造りの労役の叫びは、神様に届きました。神様は私たちの労苦を知り、涙を知る方です。悲しみこそ、神様の目に留まり、悲しみこそ、深く人の生きざまを表しているように思うこともあります。
人は、けなげなものではないでしょうか。このような地平にあっても神様の名を呼び続けました。
近頃、私は恵まれていると思うこともあります。昔はどうであれ、統合失調症の再発を繰り返しても、守ってくれる家族がおり、経済的にも困窮しておりません。好きな家具に囲まれて、平安の中で暮らすことが許されています。
毎夜愛する夫を待ち、夕食をこしらえます。この世界にはどれほどに、孤立や経済的困窮、先行きの見えない不安に震えている人たちがいるのでしょうか。痛ましいこの世界に神様は目を留め続けてくださっています。
どんな嘆きをも聞いてくださる神様です。いまだに私もうめいています。それは根源的な寂しさと言ったらいいのでしょうか。存在の孤独に近く、なぜこのような世界に私が置かれているのかという謎に近いのかもしれません。
愛する夫が仕事に行っている間の長い時間を過ごしながら、家事をし、時に聖書を開き、夫を待っています。夫が帰ってきても、早くに眠くなってしまう私です。1時間も時間を共にしないままに翌日を迎えてしまうのです。朝に夫の寝顔を見つめて安らいでも、凍えるような寂しさを感じる午後もあります。
イエス様はその傍らで、人間の寂しさの全てを分かってくださっています。イエス様もお寂しかったことでしょう。ゲツセマネの園で祈っていたときも、十字架を担われてゴルゴダの丘を上ったときも、十字架の上であざけられていたときも。
イエス様は私たちの体験する全ての寂しさを感じられた方であります。私たちの身代わりとなって。
先ほど自転車で買い物に行きました。2月の風はまだ冷たく、電動であっても自転車をこぐ足も痛みました。セーターの中にこぶしを隠してハンドルを握り、坂道を駆け上がりました。サムギョプサルが安かったので、たくさん買って、夫にも義父母にもおいしい焼き肉を作ってあげたいと思いました。
人生はどこかしら寒々しく、寂しい一面があります。それでも、それらの全てをご存じでいてくださる主がいるから歩めます。
主よ、寒いです。寂しいです。涙が出るほどではないけれど、沈殿する涙のような心があります。それらを全て主に預けます。主が私の心を温めようとしてくださっていることを感じています。
「神はその独り子を与えるほどに世を愛された」。主よ、私たちにお与えくださってありがとうございます。受難を、私たちのために受けてくださり、いつも傍らにいてくださり、ありがとうございます。
試練よ、来たれ。主を襲ったように私にも来たれ。主の御名によって乗り越える。そんな勇ましいことは言えません。試練のたびに私は自分のぶざまで醜い心を知るばかりです。
そのぶざまで醜い私のために、主が十字架にかかってくださったことを知るのです。そして、後に試練すら私のために与えられたものであったことを知る日が来ます。光が、夜明けのように訪れるのです。必ず。
(絵・文 星野ひかり)
◇

















