主はいつも共におられ、見守っておられる。そのことをどれほど自覚できているでしょうか。そして、共に痛んで、共に喜んでくださっていることを。
そのように聞くことは多くとも、自分の実感としてはなかなか持てなかった私でした。しかし、主は今、私の目の前で生きておられ、見つめてくださっていることを、ようやく実感として持てるようになったのです。
それは、前回の不調の時を経たからこそ感じられるようになったことでした。今まで、どこかしら占いのように「これがうまくゆくならば、主に愛されている」「うまくいかないならば、私は愛されていない」と、主の愛を自分の出来事で計っていたのです。
しかし主は、最悪の出来事の後に、大きな恵みを下さいました。私にとって、それは夫との関係の変化でした。夫の病、そして私の病を通して、主は、夫のかけがえのなさにより、目を開かせてくださいました。夫と共にいる時間が、まるで天国にいるほどに幸せに感じることもあるほどです。
先日、デスクで作業をしている私に、ベッドにいる夫の寝息がふと聞こえてきました。涙がこぼれました。私は、なかなか涙を流さない体質なのですが、ぽろぽろとあふれる涙を慌ててティッシュで拭いました。
「主は、これほどの幸せを下さった」と思いました。そして「これほどの幸せを与えられたのならば、何を取り去られても主を責められようか」とも思いました。
ヨブは、家も家族も取り去られたときに言いました。「主は与え、主は取り去りたもう。主の御名はほむべきかな」。私は、それを思い出して驚きました。恵みの中ではなく、全てを取り去られたときに、そのように言えたヨブの信仰に。
私たちが問題や病の中にあったとしても、それは与えなのではないでしょうか。その時は、なかなかそう思えません。「主よ、なぜですか」と叫ぶばかりです。
しかし、取り去られるとき、私たちは低くされます。弱く、力なく、低い者と。
私も病の不調をここ2年経験し、自信もなくなってしまいました。高いところから感謝したり、与えたり、愛することはできても、低いところから愛したり、与えたり、感謝することは難しいことでした。しかし、それこそ主の生きざまであったことを思わされました。天における全ての権威を捨てて貧しい大工の家にお生まれになり、あざ笑われながら、私たちに命の全てをお与えになりました。
少しでも得たい、上りたいのではなく、少しでも失い、低く、主がおられたところを目指して行く生き方は、なおも尊いのではないでしょうか。そして、そこでしか得られない恵みが豊かにあるはずです。
いつも主はおられ、全てが主の与えです。今のこの時でさえ、主は与えてくださっています。いつかヨブのように、どんな時でも「主の御名はほむべきかな」という信仰に至れることを望んで。
(絵・文 星野ひかり)
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