世界中で、またこの日本の中でも、多くの人が悲しみ、苦しみにもだえている。この地で起きる全てのことは、神様の許しの御手のうちで起きているといいます。しかし、だからといって神様は何も思わない方などではないでしょう。その御怒りは陰府(よみ)をつくり出すほどに激しく、悲しみは今日降っている雨風のようにごうごうと音を立てるほどでありましょう。
自分の人生を思い返しても、そこには圧倒的に神様のご臨在がありました。実父につらく当たられた思春期の暗闇の中には、神様の恐ろしいほどの沈黙がありました。親に反抗し、神様をそしって生きる道は過酷でありました。しかし、神様に見放されてなどおらず、招きのように憐(あわ)れみや祈りと出会い、美しさやきらめきもありました。
その後、神様に立ち返った私には、放蕩息子が帰ってきたのを喜ぶ父のように、夫との結婚をはじめとし、豊かに恵みが与えられました。神様は人間の罪をお怒りになり、悲しまれるお方であります。そうでありながら、今か今かと待ちわびつつ、いつまでも私たちを待ってくださるお方でもあられます。そのことを覚えれば、この世界の、そして人生の激しさ、厳しさ、美しさの中にも、神様のご輪郭を見ることができる気がします。
今、猫のマリと小助がおやつをねだって私の膝に手を置いています。神様のおつくりになったマリ、小助は何と美しくかわいらしいかと息をのむほどです。神様のおつくりになられた被造物は、天地創造の際に神様が言われたように「きわめてよい」ものでありました。
季節は花盛り。桜は早々に散ってしまいましたが、今年もあまりにも美しくありました。私の小さな庭も花盛り。毎日を楽しませてくれています。
最近は神様の下さった安息に安んじて、レース編みに没頭しています。静かな午後に窓から差す光とともに、恵みが心を満たすようです。
夫婦ともども、激しい病のさなかにありながら、多くの恵みもともにありました。夫は今のところ順調に回復し、病の宣告から2年以上が無事に経過しました。毎日何もないことが、どれほどの恵みであることでしょうか。
今も、戦争の中で、貧困の中で、飢餓の中で、病の中で、孤立の中で多くの人がもだえています。私もまた、いつその火の中に投げ込まれるか分かりません。その時には、しとしとと神様の涙が降ってくることでしょう。そのさなかには感じられなくとも、のちの日に見えてくる神様のお姿がありましょう。
昔、あの暗闇の中で神様は沈黙していたように思えました。しかし、神様に見放されているとはどうしても思えませんでした。それどころか、愛されているからこそ、神様はこのような困難をも許されたのだと思うのです。私たちが苦しむときはともに苦しみ、泣くときはともに泣き、見つめていてくださる神様です。
今、安息にとどまり、自分の遭った試練や困難を思い返すごとに、まざまざと神様はそこにおられたと気付いてゆくようです。そして苦しみがあっても、人の生きる道は、被造物が「きわめてよい」ものである以上、美しいものであることを。
(絵・文 星野ひかり)
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