そして、油注がれた祭司は、その子牛の血を会見の幕屋に携え入り、 祭司は指をその血に浸し、垂幕の前で主の前に七たび注がなければならない。(レビ4:16、17)
今回の箇所では、私たちの罪のために十字架上でご自身をささげられたキリストの愛を見ることができます。その犠牲により、私たちは信仰によって神の義という賜物を受け取ることができるのです(参照・エペソ2:8、9、2コリント5:21)。自分のことがどれだけ非難されるにふさわしい存在だと思えても、真実は異なるのです。
私たちは、育った環境に影響を受けます。自分が価値のない存在だと誤解して育つならば、神の義とされた恵みを信じることが簡単ではないでしょう。神様の喜ばれる前向きな思考と姿勢を持っていても、無意識のうちに気付かない領域で、自分が価値のない存在だと受け入れてしまっている可能性があります。
自分を価値のない存在だと誤解し、それを受け入れているならば、日々の生活にもその実が現れます。自分の言動に不安を感じ、同じことを何度も確認して、繰り返すというおかしな行動に出ることもあります。
朝目覚めたとき、あなたはまず何を考えますか。自分を責め立てる考えが自然に起こりますか。もしその対処法が分からなければ、その問題を解決するために何らかの行動に出ることを考えるかもしれません。問題解決という姿勢自体に問題はないのですが、そのような動機で行動を起こしても、自分がだめな存在だという誤解が消えることはなく、自由を体験することは難しくなってしまいます。
今日私たちは、ただキリストの恵みにより、自分が神の義とされたことを信じ、それを告白し続けましょう。私たちはキリストのようであり(参照・1ヨハネ4:17)、神の傑作品であり(参照・エペソ2:10)、世の光なのです(参照・マタイ5:14)。この真実を受け入れることからスタートし、良い実を結び続けましょう。
GOD BLESS YOU!
◇