多くの日本人がキリスト教や聖書に好感を示す中、これまで大規模な霊的覚醒が起こらなかった理由は、欧米文化の衣を着た地域教会が、日本人に寄り添えなかったことにあると、コラムを通し度々述べてきました。
日本宣教は、日本人の立場で、日本人の土俵で、そして日本文化に合わせて福音を伝えることでこそ拡大するのでしょう。今回は、日本の仏教葬儀文化に合わせた宣教について取り上げてみます。
宣教は日本文化を触媒として拡大する
私の前職の業務は、自動車用触媒システムの開発でした。入社当時、触媒について知識のなかった私でしたが、長年の体験から、触媒の果たす役割の大きさを実感してきました。
触媒とは、進みにくい化学反応を、極めて短時間に進める魔法のような仕掛けです。自動車用触媒なら、エンジンから排出される毒性の高い排気ガスと触媒温度を適度に制御すると、毒性の排気ガスは触媒に触れた途端、見事に浄化され、大気並みにクリーンなガスとなって車外に排出されます。
現代の大気環境はこのような触媒のおかげで守られているのですが、触媒自体は、排気管に装着されている目立たない存在ですので、実態を知らない人が多いかもしれません。
実は、福音宣教にとって、日本文化は触媒に当たるような気がしています。日本文化を効果的に用いて福音宣教を進めるなら、おそらく日本社会にも劇的な霊的覚醒の波が訪れるように思います。
福音の本質を変えることなく、日本文化にどのように合わせるべきか、そのようなことを思い悩む私たちに、神様は日本の仏教葬儀文化を触媒にする道を開いてくださいました。
仏教葬儀文化
日本における仏教葬儀文化は、江戸時代に定められた檀家制度から始まります。檀家制度は、欧米の植民地支配を恐れる江戸幕府が、キリスト教を迫害するために設けた制度です。
この制度の下、全ての人は身分を問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家である証明として寺請証文を発行しました。つまり全ての日本人が強制的に仏教徒にさせられたわけです。
明治以降、このような制度はなくなりましたが、仏教は葬儀文化として日本社会に影響を与え続けました。強い絆の共同体である「家」に寺院の住職が生前から寄り添い、葬儀に対応し、遺族を慰め、先祖とのつながりを支える働きを担ってきたように思います。
その後、仏教は次第に形骸化し、日本人の心に届くことは少なくなりましたが、家族親族は「家」の強い絆に守られ、死後は先に召された先祖の共同体に加えられることを意識してきました。仏教は、日本人の心に家族親族や先祖とのつながりを大切にする文化を残しました。
生前に寄り添えない仏教文化
核家族化の進んだ現代社会では、かつての「家」のような絆の強い共同体は少なくなりました。「家」の中に存在した「死」を体験する機会が少なくなり、「死」を思い起こさせる仏教との関わりを、日本人は避けるようになりました。現代社会における仏教は、生前に関わる道が閉ざされ、死後の葬儀と墓に関わることで存続しているように思います。
しかしながら、長年にわたる仏教葬儀文化の中で育まれた家族親族や先祖との絆は、日本人の心に天国の存在を思い描かせています。聖書の約束を知らないはずの日本人が、死んだら天国に行き、先に召された家族親族の共同体に迎えられることを根拠なく期待しているのは、長年続いた仏教葬儀文化の影響のような気がします。
天国を指し示す福音の力
そのような中、仏教離れは一段と加速し、最近では「家」の宗教に縛られない人が増えてきました。「死」を目前にして、私たちのもとにキリスト教葬儀に関心を示す生前相談が頻繁に入ります。
もちろん葬儀相談の中で、牧師の生前訪問を依頼される方は滅多にいませんが、一般社団法人善き隣人バンクの存在を通し、熱心に訪問させていただきたい旨を伝えると、牧師の訪問がかなうことがあります。
訪問はそれぞれの地域教会の牧師にお願いしていますが、多くの場合、「死」を目前にした当事者や家族に劇的な変化をもたらしています。その場で信仰を持たれ、洗礼を受け、間もなく召される方も少なくありません。家族で教会につながることもあります。
おそらく、天国を指し示す牧師の言葉や祈りを通し、弱さの極みにある人々の心に福音が届き、真の天国の希望を与えているに違いありません。
仏教葬儀文化を触媒にして
このような劇的な効果が福音の力によるのは、疑う余地のないことです。しかし、他の宣教手法に比べ、これほどの効果をもたらす理由は、それまで何百年も続いた仏教葬儀文化にあるような気がします。
もちろん、仏教の中には永遠のいのちや天国を伝える力はありません。しかし、家族親族の絆を守り、先祖とのつながりを大切にする文化を育んできた仏教葬儀文化がなければ、このような劇的な宣教効果は生まれないような気がしています。
生前から寄り添うことのできなくなった仏教に変わり、地域にあるキリスト教会が地域住民の「死」の弱さに寄り添い、永遠に続く天国の希望を家族親族の絆の中に伝える時が、今や神様によって備えられたように思います。
長い年月を通し培われた日本の仏教式葬儀文化が、生前から弱さに寄り添うキリスト教葬儀文化に劇的に生まれ変わることも夢ではありません。
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