「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)
昔々あるところに不思議な湖がありました。自分の好きなものの名前を叫びながら飛び込むと、湖の水がその叫んだものに変わるのです。
ドイツ人が来て、ビールと叫んで飛び込むと、ビールに変わりました。フランス人が来て、ワインと叫んで飛び込むと、ワインに変わりました。ロシア人が来て、ウォッカと叫んで飛び込むと、ウォッカに変わりました。
日本人が来て、日本酒と叫ぶつもりで走り出しました。そして、飛び込む直前に石につまずき、そのあまりの痛さに思わず「糞(くそ)」と叫んでしまったのです。
この寓話は、大変興味深い真理を含んでいます。「叫ぶ」ことは「宣言」であり「告白」です。「言葉」は「思索」を作り、「思索」は「人格」を形成し、「人格」は「人生」を決定します。つまり、肯定的で愛や優しさがあふれる言葉は人生を豊かにし、反対に否定的で恨みや憎しみに満ちた言葉は人生を破壊します。
聖書は、私たちの人生に命をもたらし、豊かにする告白を教えています。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。・・・『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです」(ローマ10:9、13)
ローマ皇帝トラヤヌスの時代に、使徒ヨハネの弟子でイグナティウスという人物がいました。彼はいつも「十字架につけられたキリストだけを、私はすべての愛をもって愛します」と告白していました。トラヤヌス帝の治世の12年目に、ローマ軍は幾つかの軍事的大勝利を収めます。そしてトラヤヌス帝はアンテオケに滞在中に、これらの勝利はローマの神々がもたらしてくれたと宣言します。
これを聞いたイグナティウスは、ローマ皇帝の偶像礼拝を指摘し、悔い改めを迫ります。トラヤヌス帝は激怒し、すぐさまイグナティウスを捕らえ、刑罰を与えるためにローマに移送します。イグナティウスはローマに向かう途中、諸教会に宛てて幾つかの手紙を送っています。その手紙から明らかなことは、彼は自分を待ち受けるであろう出来事を決して恐れていなかったということです。むしろキリストのために受ける苦しみを喜びとして、特権であると考えていたのです。
手紙の中で、彼は告白しています。
「悪魔よ、悪しき者たちよ、
あらゆる痛み、苦しみ
炎、十字架刑、
猛り狂う獣をもって私を苦しめよ。
私の手足と骨をバラバラにせよ。
キリストと共にある喜びに比べるなら、それは無きに等しいものだ」
イグナティウスがローマに着くと、役人たちはすぐに、彼に対して拷問を始めます。そうすれば、彼は信仰を捨てるだろうと考えたからです。しかしそのような拷問は、逆に神への信仰を強めただけでした。拷問によっては彼の心を変えられないと知った役人たちは、彼を飢えたライオンの待っている闘技場へと送ります。
その最後にあっても、彼は周囲の人々にイエス・キリストの救いを語り続けます。やがて観客席は人々でいっぱいになりました。
イグナティウスは円形闘技場の真ん中にただ1人立たされ、処刑を待っています。その間も、詰め掛けた群衆に語り続けます。
「ローマ市民の皆さん。私は間違った行いや何かの犯罪者としてここに立っているのではありません。私はただ唯一、真の神を信じると言った故にこのような裁きを受けているのです。真の神は物言わぬ偶像の神ではなく、また滅びゆく人間などではなく、永遠に生きる神です。この神は皆さんを愛し、救い主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。私の願いは、皆さんがこの神を信じ、イエス・キリストを救い主として信じてくださることです。私は今この神のもとに行こうとしています。それは私にとってこの上もない喜びなのです」
彼の言葉が終わらぬうちに、檻に入った2頭のライオンが解き放たれ、うなり声を上げて彼に襲いかかります。処刑はあっという間に終わりました。こうしてイグナティウスは、イエス・キリストを信じる信仰の故に喜んでキリストに従ったのです。
誰でも「イエス・キリストは私の救い主です。私の主です」と告白するなら、その人に永遠の命がもたらされるのです。
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