私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ人への手紙1章21節)
キリストに属し、キリストのものとなったクリスチャンであっても、いつでもキリストのために生きているとは限りません。胸に手を当てて考えてみたら、思い当たることがあるのではないでしょうか。
しかし、キリストのためではなく、自分のために生きていることが的外れの罪であると自覚させてくれるのは聖霊の働きです。聖霊は、絶えずキリストのために生きるようにと私たちを導かれます。
本当のところ、キリストがすべてであると考えたら、キリストのためにすべてを手放すことができるはずです。キリストだけを愛し、キリストがすべてのすへてとなるのです。
キリストのために生き、キリストのために死ぬのです。パウロは、人生そのものがキリストであり、キリストを食べ、キリストを飲み、キリストと生き、キリストに召されて天に帰ったのです。生きることすべてがキリストだったのです。
それは、「こうあるべき!」と考えたからできるものではありません。真にキリストと出会ってこそ、自ら湧き上がってくる思いなのです。そうでなければ「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」と言い切ることはできません。
もちろんパウロも、世の力、悪魔の力、罪の力に引かれて誘惑されることもあったはずです。ローマ人への手紙7章において、その葛藤を記しています。
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章23、24節)
しかし、ローマ人への手紙8章に切り替わるや否や、「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8章2節)と急転直下解決しています。
このティッピング・ポイントは何だったのでしょうか。
祈りにあります。そして、神がその祈りに答えて助け主である聖霊が働いてくださったからなのです。キリストと真に出会っていない人は「『生きることはキリスト』とは何とバランスの悪い生き方だろう!」と思うことでしょう。しかしキリストを知ったなら、それが当然のことだと分かります。キリストはあまりに素晴らし過ぎる方だからです。
本当の意味でそれが分かるのは天国に行ってからですが、その前味を知っただけでも十分なはずです。共にそんな人生を歩めますように。
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