この年に、アンドリューは625万ドルを出してニューヨーク市に64の公共図書館の分館を建てた。苦学しながら働いていたとき、初めてジェームス・アンダーソン大佐の好意により本を読む恩恵を受けたあの時の感謝の気持ちを彼は忘れていなかったのである。
いつぞやダムファームリンに「カーネギー図書館」を建てたとき、第二のふるさとである米国にもいつの日にか図書館を建てようと誓ったのだった。ニューヨーク市の公共図書館長J・S・ビリング博士は出向いてきて深い感謝の気持ちを述べた。「教会と図書館の多い町には立派な市民がいます。そういう町は必ず栄えるのです」。アンドリューはこう答えた。
また彼は、ニューヨーク近くのブルックリンには20の分館を設立した。カーネギー一家が貧困にあえぎつつスコットランドから米国に渡り、最初に居住したのがアリゲニー・シティだった。この町はアンドリューにとって忘れることのできない場所だった。彼はこの地に深い感謝の念を表し、記念として公共図書館と公民館を贈った。この開館式には大統領も出席し、盛大なものとなった。
次に、米国で彼にとってなじみの深い町は言うまでもなくピッツバーグだった。この町でアンドリューは仕事において成功し、多くの知り合いを作ったのだった。この町には感謝の思いを込めて図書館、博物館、絵画陳列館、工業学校、女学校を寄贈した。このために使った金は2400万ドルに上る。
市長は彼を晩餐会に招き、立派な金メダルを贈った。この席にはペンシルバニア鉄道のかつての同僚たちや、すでに引退した仲間、そして電信局の「仲良し三人組」だったボブ・ピットケーレン、デーヴィッド・マッカーゴも姿を見せた。あのスコット氏だけは悲しいことに1881年に死去したのだった。
(スコットさんがいてくれたら、どんなに喜んでくれたことか。)アンドリューはつぶやくのだった。(やったな、アンディ。きみはただの実業家として終わるのではなく、こうして福祉事業を起こしたことは素晴らしいよ。)気のせいか、こう言うスコット氏の言葉が耳もとでささやかれたような気がした。
こうしてピッツバーグ市に返礼してから、次に手をつけるべき仕事は、ワシントン市に「カーネギー協会」を作ることだった。1902年1月28日。彼は2500万ドルを投じてこれを実現させた。この協会は人類の向上、進歩のために調査、研究、発明などを奨励する機構で、特に科学、文学、芸術などの部門において調査を行い、それを財政的に補助し、政府、大学、工業学校、学界などと協力しつつ研究を進めるものであった。多くの実業家、学者、政治家が協力を示し、国務長官ジョン・ヘイ氏は会長を引き受けてくれた。そして1904年4月28日、合衆国連邦議会の決議によって法人組織として発足したのだった。この協会の業績については知らぬ者はいなかった。
一つは、木材と真ちゅうで作ったヨット「カーネギー号」である。これは世界の海を航海し、すでに作製されていた航海地図の誤りを訂正することで大きな業績を残した。また、このヨットは親善の役割をも果たした。アンドリューはいつも不幸な国、他国の侵略を受けたり、支配されたりしている国のことを思っていた。それで自分の祖国や米国がもしこのような政策に加担したことがあったとしたら、何かの形で埋め合わせをしたいと考えていたからである。
もう一つの業績は、海抜5886フィートのカリフォルニア州ウィルソン山に建てられた天文観測所だった。ヘール博士が所長となったこの観測所から新しい星の写真が撮られ、1枚目を現像すると16の新しい星が発見された。さらに2枚目の乾板には60、3枚目には100以上の星が写し出され、その中の幾つかは太陽よりも大きいことが分かった。
3番目の事業は「善行基金」の設定だった。ある時、ピッツバーグ市付近の炭坑で爆発事件が起こり、炭坑支配人のテーラー氏が真っ先に坑内に入り救出活動をしているうちに生命を失うという悲劇が起きた。この事件に心を打たれたアンドリューは、勇敢な行為をして犠牲になった人、友人を救おうとして倒れた人に対し、その善行に報いたいと考えた。そして1904年4月15日。500万ドルを投じて設定したのがこの「善行基金」だったのである。この基金はやがて英国にも設定され、本部をダムファームリンに置いた。その後もこの基金は欧州各国へと広がってゆき、災害救出活動の模範となったのである。
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<あとがき>
いよいよアンドリューは、全身全霊をもって福祉事業に着手します。すでに故郷ダムファームリンに「カーネギー図書館」を寄贈した彼は、第二のふるさとであるニューヨーク市にも64の公共図書館を建てたのです。かつて苦学をしながら働いていたとき、ジェームス・アンダーソン大佐から本を貸してもらったり、激励されたりしたときのことを彼は忘れておらず、勤労青年が自分のように知識の恩恵にあずかることを願って図書館を各地に寄贈し続けました。
次に彼は自分を実業家として育ててくれた町ピッツバーグにも感謝の気持ちを込めて図書館、博物館、絵画陳列館、学校を建てました。さらに、ワシントン市に人類の進歩のための研究機関「カーネギー協会」を設立し、ヨット「カーネギー号」で世界を巡回させ平和親善に努めました。また、事故で亡くなった労働者の家族を救済するために500万ドルを投じて「善行基金」を設立し、本部をダムファームリンに置いたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。