それから3日後、政府から派遣された職人がやってきて、台所と寝室の仕切りとドアを作った。それから、ベッドを設置し、テーブルとイスを運び込んだ。また地方長官ゲスナーの指示で生活に必要な台所用品、食器、そして毛布や布団、孤児たちに着せる下着と新しい服なども届けられた。
ペスタロッチは、ようやく台所でじゃがいもやかぶのスープを作ることができ、お湯を沸かして子どもたちの体を洗い、その髪をとかしてやることができたのだった。新しい服に着替えさせてもらった子どもたちは大喜びで広い建物を駆け回ったり、はしゃいで大声を上げたりした。彼らはペスタロッチに飛びついて言った。「お父さん、ありがとう」
ペスタロッチは、子どもたちに何も教えなかった。ただ一日中大きな部屋の真ん中にいて、彼らを抱いたり膝に乗せたりして、一緒に歌ったり、祈ったり、遊び、語り合うだけであった。彼は後にこう書いている。
「・・・彼らはただ私のそばにいる。私もまた、しばらくも彼らを離れない。彼らの食物は私の食物である。・・・夜は彼らと共に眠り、最後に寝て初めに起きるべきベッドの中にあっても、彼らが眠るまで彼らと共に祈り彼らに教えた・・・」
日がたつにつれて、まるで氷が太陽の光に溶けるように、子どもたちは閉ざされていた心を開き、のびのびと行動するようになった。彼らは、何をやってもペスタロッチが叱らないので、頭で突いたり、殴りかかったりした。蹴飛ばす子どももいた。しかし、ペスタロッチはそんなことは少しも気にかけないといった様子で、彼らを引き寄せ、抱きしめるのだった。
何カ月かたったとき、少しずつペスタロッチは子どもたちに読み、書き、計算を教えはじめた。彼は今まで誰も考えたことのないような方法を用いた。つまり、大きな板に絵文字を書いて、視覚を通して子どもたちが文字や計算を学べるようにしたのである。それから、何よりも大切な「魂の教育」を始め、祈ることと例話を通してやさしく聖書を教えた。
子どもたちの進歩にはめざましいものがあった。政府から調査員が施設に来てこのありさまを見、大変に感動して人々に語ったことから、この孤児院は急に有名になり、寄付金も増えてきた。
翌年にはここに引き取られる子どもは孤児だけでなく、両親そろっていても貧しくて育てられない家庭の子どもも入ってきて世間の評価もかなり高いものになっていった。もはやこの施設は孤児院というよりも学校として認められるようになっていったのである。
1799年5月24日。ペスタロッチは80人の孤児をつれてルツェルンに行き、行政長官ルグランを訪ねた。ルグランは大喜びで一行を歓迎し、子どもたち一人一人に銀貨を1枚ずつ与えた。ペスタロッチは誇らしく、また喜びでいっぱいだった。しかしながら、彼らが馬車で送られて帰ってくると、孤児院の前には怒りと不満に顔を引きつらせた人々が待ち受けていた。それは、子どもをこの施設に預けた両親や身内の人々だった。
「見せ物じゃないんだよ」。1人が噛みつくように言った。「こんなピカピカの衣装を子どもに着せてあちこち引き回してよう」。そして、無理やり子どもの手をつかむと帰って行った。
彼らは隣り近所の人々に、ペスタロッチは子どもを利用して役人におべっかを使っていると悪口を告げて回った。この時から子どもを預ける人が減り、寄付金も申し合わせたように途絶えた。しかし、これは悲しみの始まりだった。
1799年6月。再度起きた戦争のためにフランス軍はこの孤児院を軍の司令部に充てるために立ち退きを命じたのである。ペスタロッチは何度も州長官のもとを訪ねて懇願したがだめであった。6月8日。彼は80人中20人の子どもを牧師ブジンガーに委ね、残りの60人を門外に送り出さなくてはならなかった。
最後の朝。ペスタロッチは念入りに子どもたちの髪をとかしてやり、晴れ着を2枚ずつとわずかばかりのお金を持たせて、一人一人を抱きしめて祝福した後、どこへともなく消えてゆく彼らの後ろ姿を見送った。
一人になってから、彼も身支度を始めた。少し前から肺を患っていたために医者からグルニーゲルの保養地での療養を勧められていたのである。突然、彼は膝をつき、両手で顔を覆って号泣した。――とその時、その口から血が溢れ出してきて服に飛び散り、上着を汚した。彼は片手で口を覆い、そのまま血を吐きながら停車場に向かってよろめくように歩き始めた。
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<あとがき>
ペスタロッチはシュタンツにおいて、戦争の犠牲となり両親を亡くした孤児たちを引き取り、心を込めて世話をしました。そして、少し落ち着いてくると、子どもたちが将来困らないように「読み」「書き」「計算」を教え始めました。
この時、彼は視・聴覚に基づいた方法を用いて実務教育を行ったのです。しかし、それにもまして彼が重要視したのは、子どもの柔らかな心に信仰心を植えつけ、将来彼らが世の荒波を乗り切っていくための「聖書教育」でした。
彼がこのシュタンツで行った教育は大きな成果をもたらし、またたく間に地域全体に評判が広がりました。すると、孤児だけでなく、きちんとした家庭の子どもまでがこの施設に送り込まれ、ここは孤児院ではなく「学校」と呼ばれるようになったのでした。
しかしある時、ふとしたことが原因でペスタロッチは虚栄心の高い人々の反感を買うことになり、このシュタンツの地を去らなくてはならなくなったのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。